石になった父
いつからだろう、父が石になったのは。
あることを言っても、同じ話しか返さない。
それ以外のことに至っては、まるで反応がない。
40年ほど会社員として勤めてきて、今にも辞めてやる、と豪語していた父はどこに行ってしまったのか。
海と山が好きだった父はどこに行ってしまったのか。
父とは血の通った話をした記憶があまりない。
いや、数年前に一度家族で飲んでいる時に、部下の指導で頑張ったんだけど諦めた、というような話を少しうつむきながら話したのが最初で最後であったのだろうか。
僕は昔から兄と比べて父と一緒にいる時間は長かったような気がする。
兄は父と似た性格のせいで、真正面からぶつかって、そのせいで今はファザー・コンプレックスとか言われているけど。
父とは二人で一緒に海に潜って、沖の岩場で「これが獲れた」と言葉をかわした記憶がある。そのとき二人は親子を超えて、相棒のように海を泳いだ。
この前に実家に帰ったときにはもう父は石になっていた。
言葉に流れる血がなくて、それはまるでプログラムされたように、僕が何かを言えば僕の聞き飽きた答えが出力される。
そしてもう帰ろうとしている僕に対して背を向けた。
いつからだろう、父が石になったのは。
それも柔らかな質感をもった丸い石ではなく、コンクリートと見分けのつかないような、そんな石。
秋と冬のあいだ
寒さが始まろうとしている晴れた日の午後。
そんな日の一つひとつの瞬間が愛おしい。
斜めになったやわらかな陽に誘われて、壁にうつった梢はゆれている。
長くなってきた前髪が細めた目に届く光を優しくしている。
地面の湿った感じとか、踏むとかさかさと音をたてる落ち葉とか。
雲がゆっくりと動いて、原色を水で薄めたような青色の空に溶けていく。
まだ馴染んでいないマフラーを巻いて、ポケットに手を温めて歩く人。
草花は葉先を少し枯らしながらも緑色を濃くして、これから来ようとしている冬に備えている。
僕はステファン・スティーヴンスの歌声がそんな風景に似ているかもしないと思いながら彼の優しくほろ苦い歌を聴いている。
こんな日がいつまでも続いたらいいのかもしれないけど、それは秋と冬のあいだだからこそ在るのだろう、きっと。
ひょっとしたらこんな綺麗な時間は、今日のこの瞬間だけかもしれない。
それでもいい。
僕は冷えてきた体を抱えて、暖房の効いた部屋にはいる。
こわばりがゆるんで、うっとりとする。
もうすぐ日が暮れるよ。
家に帰ったら、オレンジとシナモンと砂糖をたっぷり入れたホットワインを作ろう。
きっと何か良いことを想いだすよ。
「理解」に関する積極的不可知論
理解など誰もできなくて、それを求めれば求めるほど理解なんてされない。妄想が崩れ去ったことへの苛立ち、身をよじるだけ。
僕たちには積極的な不可知論が必要だと思うんですよ。
それはある意味、理解なんてされないのだ、という諦念ともいえるのかもしれない。
理解しよう・されたいなんて生きている人間に対しておこがましいと思わないか。
所詮、理解なんてできなくて、それはひょっとしたら悲しいことなのかもしれないけど、それはある意味一つの真実なのかもしない。
それは寂しいことかもしれない。こんなに君と一緒にいるのに。
理解などできもせず、されもせず、でも、それでも一緒にいたいというなら、一緒にいないか。
僕はそう思うんだけど、君はどう思う?
これを言うこと自体、ひょっとしたら理解してほしいことのひとつのかもしれないんだけど。
それが理解されなくてもよくて、僕はそれでもいいのだけど。
どんなにこんなことを考えたって、しばらくしたら忘れて、またスーパーマーケットの子どものように四肢を地面に叩きつけて泣くだけなんだ。
蛍光灯に照らされて、行儀よく並んだ商品に囲まれて、大人はバツが悪そうに見てみぬふりをする。
「今日のおかずは何にしよっか。」どこかから声が聞こえる。
カルマ、カルマ。今日もまた君を傷つけた。カルマ、カルマ、カルマ。
雨の沖縄と祖母
沖縄での2泊3日旅行から帰ってきた。沖縄はずっと雨が降ったり止んだりだった。
なぜ沖縄に行ったのかというと、普通に家族旅行でもあるのだけど、母の里帰りも兼ねていたからだ。
母は沖縄で5人兄弟で唯一の娘として生まれ、高校を卒業するとすぐ、沖縄から逃げるようにして東京の美術系の短大に通った。しかし、本人いわくそこで「挫折」して、保育系の短大に入り直した。事務職や臨時の保育士として東京で働いていた。
そのときに和歌山出身で大学のために上京していた父と出会い結婚する。
東京で長男を生んだ3年後、今度は沖縄へ里帰りして次男を生んだ。これが僕だ。
つまり僕は11月のぬるい沖縄で生まれ、生後数か月で飛行機に乗って東京に戻ってきたというわけだ。
家族全員で名古屋近郊の街に移り住んでからも沖縄へは数年に一度通っていた。
小さい頃から僕は飛行機に乗って生暖かい空気の沖縄へ降り立ち、祖父母や従弟と遊んだり、水族館へ連れて行ってもらったりした記憶がある。
母と親戚は時々連絡を取っていた。電話口でかなり訛った言葉を使う母を覚えている。そして、それに対して父が不機嫌な様子で「普通に喋ろ、普通に」と言っていたことも。
祖父はガンで亡くなり、母の一番上の兄も後を続くようにして同じくがんで亡くなった。
それからだろうか、実家へ沖縄からソーキそばのセットやマンゴーやドランゴンフルーツがカラフルな箱に入って届くのが無くなったのは。
兄も僕も大学のために関東に出てきて、実家を離れた。それから沖縄へ行ったことは一度もなかった。
僕にとっては高校に入った頃だったか中学生だったか、一番若いおじさんが遅めの結婚式を挙げるというので、それに参加したのが最後だった。
頑固で気の強く、周囲とも時々対立していた祖母は、亡くなった祖父が建てた大きなコンクリート造りの家に一人で住むようになり、身体の状態も悪くなったので施設に入るようになった。記憶が所どころ抜け落ちるようになりながら、認知症的な猜疑心を抱えながらも別れるときには「寂しい、まだ行かないで」と言いながら目に涙を浮かべていた。
それが僕の知っている祖母の最後の元気な姿だった。
今回、久しぶりに家族揃って沖縄へ訪れて、親戚のおじさんおばさん、そして施設に入っている祖母にも会うことになった。
母は「記憶も薄れているみたいだし、そんなに時間取らなくてもいいんじゃないの」とあまり思い入れはなかった。
当日、親戚のおばさんに付き添ってもらい施設を訪ねた。
祖母の住む2階のフロアは昼食時だったのもあり、白髪の老人たちが車いすに乗ってテーブルに向っていた。
母はそのうちの一人を見ながら「あれがおばあちゃんなんじゃないの」などと話していた。
おばさんは「ちょっと待っててね」と言ってどこかへ行くと、数分ののちに寝かせた車いすに乗せて老人を運んできた。
一瞬の戸惑いののちにその場の誰もが、それが祖母であることに気がついた。
車いすに寝かせられ、言葉を発しない、老いた人。
昔からかけている眼鏡だけが、その生き生きとした表情を残している。
皆で祖母を囲む。何て言ったらいいのか分からない。
おばさんは耳元で大きな声で「○○が来たよ、××も、△△も、わかる?」と聞く。
祖母は反応をしない。
しかし、母のほうへ手を伸ばす。母が近寄ると、ゆっくりとした大きな動作で頭をなでる。
「そうだね、わかるね。」とおばさんは笑う。
僕も近づくと同じように頭をなでてくれた。
祖母はどんな世界に生きており、どんな目でこの世界を見ているのだろうか。
そこには光があるのだろうか、悲しみや喜びはあるのだろうか。
祖母が何かをいう。
「あー、あぃ、え、えー」
誰もが耳を傾けるが、何を言っているのか分からない。
何かを懸命に伝えようとする祖母をよそに、周囲は少し笑ってごまかす。
そこには「口がきつい」と疎まれた祖母の姿はない。
「あー、あぃ、え、えー」
徐々に身振りが大きくなる。手を左から右に向かって何かを開けるように動かす。
「分かった。」とおばさんが言う。
「入ってって」って伝えたいのだと。
それはきっと娘の家族が来た時に、玄関から迎えることを示しているんだろう。
ごめんね、おばあちゃん、ここはもうあの大きな家じゃないんだ。施設なんだ。
あるいは、それは無意識のそこから流れ出てくる、娘を迎える気持ちなのかもしれない。
「大丈夫、ちゃんと家に行って、うとうとしてきたよ。(仏壇に手を合わせてきたよ)」とおばさんは伝える。
それでも祖母は身振りを続ける。
うん、わかったから、大丈夫。
「上の孫が結婚したんだって。おめでとうは?」と写真を見せる。
祖母は手をゆっくりと叩くようにして身振りをする。
「わかったんだね。」皆は少し微笑む。
祖母は再び母の頭をなでる。母は少し涙を浮かべている。
少し時間が経ってから「もう昼ごはんの時間だから」と理由をつけるようにして施設を去ることにした。
「じゃあね、行くから」と皆で手を振る。
祖母の顔は赤くなり、目には涙がにじむ。
エレベーターのドアが閉まるまで手を振った。
帰りの車の中では皆がそれぞれの感情の収めところを分からないようにして、関係のあるような、ないような話をしていた。
今自分の身に起こったことと、過去の沖縄での記憶の消化不良を抱えるようにして。
旅行中、祖母の話をそれ以来あまりしていなかったのだけど、その日の晩、国際通りの近くの居酒屋で家族四人で飲んでいて、ふと母が呟いた。
「きっと、ああいう姿だって見たほうが良かったんだと思う。」
人が生まれ、親になっていく。
貧しかった中で育てた子どもは巣立って、また新たな家族をつくる。
またそこに人が生まれ、親になっていく。
ずっと昔からのものは、その流れに身を置きながらゆっくりと底へ向かって動きを緩める。
それを悲しいというのか、僕には分からない。
そういうことがこの世界であって、きっとそれだけなんだとおもう。
それはきっと雨の沖縄が知っている。
古くからある食堂のかすれた文字や、観光客向けの安っぽい看板。
鬱蒼としたやんばるの森や、風に吹かれてきたさとうきび畑。
錆びたトタンの残されたガマや、綺麗に整備された平和公園。
貯水槽を屋根に持つ、大きなコンクリート造りの建物。そこに住む新しい家族。
雨の中では全てが静かに息をしている。
イスタンブールの朝
騒がしい音楽と隣合わせだったホステルの一室も朝には静まり返り、日に焼けた旅人たちの静かな寝息だけが光の差し込み始めたドミトリールームを満たす。
開けっ放しの窓のせいで冷え切ったバスルームで熱めのシャワーを浴び、長くなるであろう1日に思いを巡らす。
「朝食は8時から10時まで、テラスで。」
言われた通り、8時にテラスへの狭い螺旋階段を上る。
テラスには誰もおらず、朝日が、擦り切れたトルコ柄のカウチをあたためはじめている。
外へと続く窓があって身をかがめて外へ出る。
しっとりとした空気と昇ったばかりの太陽がイスタンブールの街を満たす。
動き始めたメトロの騒音。建設中のモスクのシルエット。遠くに海が見える。電気コードで雑然としたアパートメントの屋根。海鳥が空を仰ぎながら鳴く。何処かから迷い込んだ猫。
旅中にのぼるテラスはいつだって良い。
綺麗な建物やカラフルな土産物屋だけではなく、その街の日常を見せてくれる。生活、生活、生活。
2週間以上旅をしたトルコも今日去るのだ。イスタンブールの朝は静かで、そして僕を包み込んだ。
最大限の音量で、退屈がなくなるまで
いつものイヤホンではなくて、部屋にある古いヘッドホンで音楽を聞いてみる。
ベースとドラムがまるでそこにいるように聞こえる。
ギターのアンプの前にいるように音は震える。
* * *
真夜中の帰り道、買ったばかりの自転車を飛ばした。
蛋白質が白く固まるみたいに受験勉強で煮え切った脳ミソを抱えて。
夜の道路はいつもと違って車も走っていなければ人っ子一人歩いていない。
消えかけの白く光る街灯が地面を照らしているだけだ。
大音量で音楽を聞きながら街灯の白い光を突き破るようにどれだけ速く走れるかだけに夢中になっていた。
ひょっとしたら横道から車や何かが飛び出してきて轢かれるかもしれない。
そんなこと関係なくて「死んでしまえばそういうことだったのだ」と言っただろう。
* * *
音楽は小さい音楽で聞くほど詰まらないことはない。
それならばいっそ、それを棄ててしまえ。
スマホがご丁寧に教えてくれる
「これ以上音量を上げると耳を傷める可能性があります。それでも上げますか。」
俺は「OK」を押して音量を上げる。
「真空管はその中に稲妻が走るくらいに電圧をかけたほうが鳴るんだよ。」
俺は一人でにやける。
走って、回転のし過ぎで空中分解するまで。
最大限の音量で、退屈がなくなるまで。