束の間の休息
彼はショートピースを吸うのが好きだった。
ショートピースとはフィルターのついていない両切り煙草だ。
彼はふかすように、ゆっくりと煙を吸い込んでは
白くなった息を空気が運ぶままにさせておいた。
煙越しに雨上がりの空を眺めると生きている気がしたし、自分のいのちがちっぽけだと感じることができたからだ。
そして彼は短くなった煙草を押し消さないで灰皿の上で燃え尽きるままにしておいた。
完全に灰になった塵は、風がさらっていった。
彼がいなくなったのを知る人はいない。
いや、彼がかつて存在していたことを知る人ももういないのかもしれない。
彼のような人がいたような、そんな気がする人はいる。
でも、転校してきて仲良くなりかけたところで再び転校してしまった友達の思い出のように、本当に彼がいたかどうかが確かではないのだ。
彼が住んでいたアパートにあった物は、今はもうないのだという。
それらは誰かが持って行ったのでもなく、近くの公園のゴミ捨て場に放置されていたのでもなく、いつの間にか無くなっていた。
おまけにアパートは建物主と地主とのトラブルで取り壊されてしまった。
僕が何となく覚えているのは、夏の終わりで肌寒い中を彼が半袖にスリッパの姿で煙草を吸っていた彼の横顔だ。
でもそれも確かではない。
「夢なんじゃないの」と他の誰かに聞かれれば
「そうかもしない」としか答えられないようなものだからだ。
彼に何かをもらったことがあったような気がするけど、何をもらったのかは覚えていない。
多分なくしてしまった。
部屋を探してみても出てくるのは自分の幼い頃のガラクタばかりだ。
僕の思い出、いや、忌まわしい過去が詰まった衣装ケースをクローゼットから出してみると、不自然にあいた隙間には埃か灰かの跡が少しついていた。
その隙間に手を伸ばそうとすると周りのものが崩れて、隙間はまるで今までなかったかのようにガラクタに埋められてしまった。
彼のことを思い出そうとすればするほど、記憶は曖昧になり、どんどん思い出せなくなってしまうから、僕は思い出すことをやめた。
そっとそのままにしておいたほうが彼のことを頭のどこかにとどめておける気がしたからだ。
でも、きっと5年も経てば忘れてしまうだろう。
それは悲しいことかもしれない。
いや、それはそれでいいのかもしれない。
3日間降り続いた雨が上がったのは夜12時を過ぎたころだった。
今日は一歩も部屋から出ていなかったから薄いコートを羽織り、散歩することにした。
歩いて7分くらいのところにあるコンビニで缶ビールを一本手に取り、レジに並ぶ。
深夜のコンビニは幸の薄そうな店長がうつろな目で作業をしている。
店長の後ろにある煙草の棚を見ていたら、しばらくやめていた煙草をもう一度吸ってみようという気になった。
店長に番号を告げ、アメリカンスピリットのメンソールライトを持って外に出る。
近くの公園は上がったばかりの雨で濡れていて、ようやく木の下で濡れていないベンチを見つけてビールのプルタブをあけ、煙草に火をつけた。
空に浮かぶ月は満月を過ぎたところだったけれど、周りに霧がかかっていて綺麗だった。
人は死ぬと星になるというが、そんなこと昔から信じていない。
消えてなくなる、それだけだ。
僕が死んだら少しの人は少しの間だけ覚えていてくれるだろう。
それで十分かもしれない。
僕は少し酔った頭でそんなことを考えていた。
少し寒くなってきたので、家に帰ろうと煙草を消し空のビール缶へ入れ、ベンチを立つ。
その時、僕は自分の隣にショートピースの吸い殻が細い煙を上げているのに気が付いた。
僕はそれを見て少し微笑んだ。
そして吸い殻の火を砂で消し、崩さなように気を付けながらポケットに入れ、雨上がりの道を歩いた。