愛の対称性の不可能性とその崇高さについて
愛は対称性を求める。
相手のことを愛すれば愛するほど相手のことが信じれなくなる。
自分が相手を愛するように、相手は自分のことを愛してほしい。
これが無限にループされることで哀しいことに愛は憎しみに豹変することがある。
このような意味で愛は対称性を求めるのである。
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この考え方は人類学者の菅原和孝が鳥羽森の名前で出版した『密閉都市のトリニティ』のベースになっている考え方であるという。
(今は外国に長い間おり入手することができないため『世界の手触り』での大村敬一の解説にのみ基づく理解。以下も同様。)
これは経験上真実であると思う。
そして、この対称性(シンメトリー)が愛憎の源泉であるからこそ、その二者関係に第三者を追加してトリニティにする。
しかし、そのトリニティの間違いこそは、この愛の対称性から目を背けることであり
それがいかに醜くても苦しくてもそれから逃げずに相手を愛するという行為を続けなければならない。
逆に言えば、それが愚かな行為であると分かっていながらも愛することが尊いのである。
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愛をしていると「伝わらない」と感じることがいくらでもある。
今の彼女とはお互いに第二言語である英語で話しているから余計にそうだ。
相手の考えていることが分からない。自分のことがうまく表現できなくてもどかしい。
それが対称性のジレンマへとつながる。
なぜならコミュニケーションの失敗は相手への無理解を促し、自分との同一化を迫る対称性への欲求へと駆り立てるからだ。
以前付き合っていた彼女に
「あなた英語も大して話せないのに愛だなんて馬鹿みたい」
と言われてその時は狼狽し、その言葉は今も僕の頭の中に残り続けるのだけど
その彼女とだっていくら話したところで分かり合ったことなんてなかったのかもしれない、と今では思う。
極端なことを言えば、これは哀しいことなのだけど、
人間誰も完全に分かり合うことなんてできやしない。
だから完全な対称性の実現など不可能に決まっているのだ。
だからといって諦めることが正しいのかと言わればそうではない。
むしろその泥沼に身を捧げるという行為が崇高なのである。
他の人には愚かに見えるかもしれないが、それでも愛をするということ。
その人間の儚くとも美しい姿に賭けるしかないのだ。