「あなたは何をやりたいんですか?」と「普通の人」
僕たちは常に呼びかけられる。
「あなたは何をやりたいんですか?」
例えば、日常的な会話の中でもそうだし(特に大学の同期以外の人、家族とか)、自己啓発本(読んだこともないけど)、大学院入試や様々な面接において問われる。
なんなら、物心ついたときから繰り返し、問い詰められる「将来の夢」のようなものもその一環だ。
僕たちは常に問われている。
そして、それを聞き手が納得する形で、しかし、手頃に細部を捨象し、少年漫画のような安っぽい熱望をまとわせて、テンポよく返すことを期待される。
僕は、海外大学院の申込のために用意するモチベーション・レターのテンプレートを、ネットであさっていた。
「○○大学申込事務局へ、
私はとてもモチベーションの高く、自信をもった学生です。・・・
学部では○○の勉強をし、それは大学院におけるプログラムへの貢献ができることを示します。・・・
私は将来、ヨーロッパの国際組織で働くことを所望しており、本国ではそれが成し遂げられる可能性が低いことからも、そちらの大学において勉強したいと考えています。・・・
私は○○年に○○機関において2か月間のボランティアを行いました。・・・
また、かつてイギリスで語学研修に参加したこと、一年の交換留学のプログラムを修了したことは、私の大学院での学生生活の成功を保証します。・・・
良い返事を心待ちにしております。・・・」
こういった具合だ。
確かに、これを読んだ採用担当者は「ふむふむ、やる気があるし、目的意識もはっきりしているし、いい学生だ。採用だ。」となるかもしれない。
それは十分に分かる。
競争的な社会において、多くの選択肢の中から判断をするということは「平等性」と「自由」に関わっている。
しかし、どうだろう。
僕も含めて、そこまで将来に「熱望」があって、それに完全に合致するようなことってどのくらいあるのだろうか。
僕だって何かしらの目標はある。だけど、それはこのような具体的で決意と夢に溢れたものではない。
もっと「こんなふうに生きていければいいかな」というように、ふわふわとしたものではないだろうか。
決意と夢に彩られた文章や人は、新品の真っ赤なアロハシャツのように「輝いて」おり、暑苦しく、息が詰まる。
とても自分には似合いそうにもない。
それに、そういうことを毛嫌いしてしまう自分がいる。
そんなことを心の中に悶々としながらも、僕はそんなテンプレートに倣って書いたのだけれども…。
「あなたは何をやりたいんですか?」
いつも「総括」を迫られている気分だ。
それは、権力によって上から下に振り下ろされるだけではなくて、自分の中に内面化している。
「で、俺は何をやりたかったんだっけ?」
ふと立ち止まるとき、今まで自然に覚えて、楽しく駆けていたスキップが出来なくなる。
足はこんがらがり、しゃがみ込む。
後ろを振り返り、今まで自分がやってきたことすらも疑うようになる。
それでも、歩かないといけないから、どうにかして不器用にゆっくりと俯きながらも進みだす。
なぜなら、周りが常に前に向かって動いていて、立ち止まることは遅れを示すからである。
* * *
そういえば、保育園に通っていた頃の「将来の夢」に関する回答を思いだした。
女の子は「ケーキ屋さん」や「花屋さん」、男の子は「サッカー選手」や「野球選手」など、いつ覚えてきたのか分からないような模範解答をしていた。
僕は、そのままの感情で「普通の人」になりたいと言った。
それは「普通の大人」の意味で、分かりやすく言えば「サラリーマン」だったのかな。
自分や友達の父は保育園児だった僕にとっては「普通の人」の典型であり、そのままなりたい人たちだった。
家族からは、「普通の人って、今は普通じゃないの?」としばらく笑いものになったのだけど。
僕らは常に呼びかけられている。
「あなたは何をやりたいんですか?」と。
僕らは夢なんかあっても、その場の流れで出来た、ふわっとしたものでしかないはずなのに、いつも問われる。
それが難しいことなんか分かっているのだけど「そこそこ楽しくて、幸せな人生」ができたらいいのだけど。