帰れぬ人びと
日本からヨーロッパに向けて旅立つとき、それは七月の終わり頃、まだ蒸し暑さもない、さわやかな夏の初めだった。
文学好きの大学の友人が餞別として本を送るということだったが、結局出発までには間に合わず、さらに数か月が経って、僕がウィーンにいるときに住んでいるアパートまでわざわざ日本から送ってくれた。
二冊の本と、ささやかな贈り物が小さな小包には入っていた。その本の一冊が鷺沢萠の小説『帰れぬ人びと』だった。
ウィーンにいるときから、つい最近まで小説を読む余裕が無く、いつも持ち歩くバックパックのポケットに入れたままだった。ブダペストに戻ってからしばらくした三月中旬、コロナウイルスによる大学キャンパスの閉鎖、学生の負担軽減のための課題の削減があって時間が出来たこと、外出禁止令で外に出られないこともあって、この薄い短編集を読み始めた。
なによりも、その題名がとても自分の状況に合っているような気がしたのだ。
「帰れぬ人びと」
キャンパスが閉鎖され、授業がオンラインに切り替わると同時に、沢山のクラスメートたちが知らないうちに、それぞれの国に帰っていった。パートナーのいる国に行った人もいる。次々と色んな地域で感染が広がり、国境が封鎖され、外出が出来なくなった。徒歩で三〇分くらいで行ける場所にある寮に住んでいるクラスメート達にも会えなくなり、クラスのグループチャットには入り乱れた情報、不安、そして別れの挨拶とそれへの応答のemojiが並んでいた。
僕は大学から毎日来るアップデートのメール、気づけば80件も未読メッセージが溜まるグループチャットすらも確認することが面倒になって、パートナーとたわいもない会話をしたり、料理を作ったりして気を紛らわせた。そして、ひと一人が立つことしかできない小さなベランダで手巻きの煙草をゆっくりと吸った。
僕がアパートを借りて住んでいるのはブダペストの少し東側、リスト・フェレンツ空港までもそこまで遠くないところだ。いつもはよく飛行機が上を飛んでいる。
冬時間も終わる頃の三月のある日の夕方、エジプト出身でドバイに家族と住んでいるクラスメートがグループチャットで急なお別れの挨拶をしていた。その夜は寮でお別れ会をするらしい。僕は歩いて参加しに行こうかと思ったけど、やっぱりやめた。
夕食をとった後、春の初めの生暖かい風にのって煙草を吸う。まだそこまで遅くない時間でも空には星が出ている。ベランダの上を飛ぶ飛行機の数も減ったように思う。
そんなとき、割と低い位置で、たった今空港から離陸したばかりの飛行機が、両翼のライトを交互に点滅させながら加速し、飛び立っていった。
僕は、その飛行機が、まるでここから足早に立ち去ろうとしているように思えた。それに乗る人たちは最後のチャンスを掴むようにして、飛行機の中で座席についているのだろう。恋人に会いに行く人、家族に会いに行く人、家に帰る人…。
僕は煙草と吸いながら、自分が取り残されたような気がした。
「おれには帰る場所なんてない」
日本に帰ったところで、大学時代住んで拠点としていた街にはアパートはとうの昔に引き払っているし、実家に帰ったところで近くに友人も多くはいない。大体、今の生活を急にやめて、パートナーをここに置いて、何になるというのか。
日本を発つとき、しばらくは戻ってこないことを当たり前のようにして思っていた。そこは帰る場所ではない。
だからといって、何年住むかもわからないこのブダペストのアパートも帰る場所ではない。
* * *
この鷺沢萌の短編集の中にはいつも帰る場所がない人たちが登場する。
社会の中で出自の不安定な人。家を失った人、奪われた人。早くに親を亡くした人、離別した人。逃げるようにして引っ越しを続ける人…。
東京の、中心ではない場所にある埃っぽい街の歴史と風景、そこに住む人たちの小さな物語。
聞きなれない地名を表す錆びついた看板、混み入った路地、用水路と町工場のにおい。そこに漂う愛おしさと儚さ。胸が苦しくなるような哀愁。
そうだ、僕らだって、帰る場所なんてないんだ。
* * *
題名にもなっている短編『帰れぬ人びと』には「大鳥居」という地名が出てくる。
僕はこの地名に何となく記憶があって、それがいつだったのか思い出そうとした。
しばらくして、ようやく思い出した。それは僕が、地元に住む友人とインドで落ち合ってからする旅に出るために、翌日の羽田空港発の早朝便に間に合うようにと、当時付き合っていた彼女と泊まった場所の近くだった。
当時付き合っていた彼女は、その一週間くらい後から一年ほど海外に行く予定があったため、僕の旅行について良く思っていなかったが、見送りに来てくれるということだった。
羽田空港までのシャトルバスがあったこともあって、大鳥居の近くのホテルに泊まることにした。小さな駅を降りると人通りの多い商店街や古ぼけた中華料理屋があった。まるで数十年前の東京に来てしまったような落ち着かない気持ちで小さな居酒屋に入って夕食を取り、ホテルの小さい部屋に入ったのだった。
その夜、彼女は子どものように泣いて、僕はなかなか寝れなかった。
早朝に起きて、寝ぼけた頭のまま僕は韓国で乗り換え、インドに向かったのだった。
今思い出しても、大鳥居の周辺の街は何だか夢だったんじゃないか、というような気がする。
そして、その街の風景は、僕の頭の中で急に、小さい頃に見た、実家の最寄り駅の旧駅舎のトタンの錆び、でこぼこなアスファルトに伝わる振動、走り抜ける電車の騒音の記憶の欠片がオーバーラップして響き合うのだ。
改修されてコンクリート造りとなった今の駅舎からは取り戻せない風景と記憶。
昔の彼女との関係、記憶。
取り戻したいわけでもなければ、懐かしむわけでもない。
ただ、そのどうしようもない断片たちが曖昧なまま存在をなくしつつあることに少しの恐れと諦め、そして希望がある。
帰る場所のない、記憶のかけら。
* * *
帰る場所がある人をうらやむ気持ちがある一方で、一つの場所に帰属することも僕は信じていない。
それは鷺沢萌の物語に出てくる人びとのように、ある種の熱っぽさと老いを同時に抱えることでもある。
旅を続けることにおける、何らかの夢と逃避の裏表だ。
どこでも生きていける楽観と、帰る場所がない寂しさだ。
「おれには帰る家がない。故郷がない。国がない。世界がない。はじめっからなかったんだ そんなものは…。」寺山修司
ブダペストのチャイニーズ・ショップ
朝から二日酔いの終わりかけのような頭痛が治らなかった。
その前日には、はるばる日本から来てくれた兄夫婦と兄の奥さんの母と一緒だったウィーン、ブラティスラバ、ブダペストの中欧三都市をたどる旅行も終わりを告げ、ブダペスト東駅で見送ったばかりだった。
彼らの電車を見届けた後、そのまま大きな荷物を持って、話をつけていたブダペストの東側にある三階建ての家の屋根裏の一室に引っ越しをした。
持っていた荷物は、ウィーンでの3か月のために持っていた大きなスーツケースといつも使っているバックパック、そして日本からのお土産が入ったままもらったトートバッグだった。
地下鉄とバスを乗り継いで、さらにそこから8分ほど歩いて、少しだけ迷いながらもたどり着いて、ベルを鳴らすと、すぐに大家さんが出てきてくれて鍵を開け、部屋を案内してくれた。
「じゃあ、また困ったら何でも声をかけてね」と優しく笑うと大家さんは下の階の自らの家に戻り、僕はだだっ広い部屋に一人残された。
ベッドに横になっても何だか落ち着かず、慣れない手つきで鍋で湯を沸かしてお茶を淹れたり、荷解きをしたり、歩いてスーパーマーケットに行ってパンとサラミ、サラダ、オリーブオイルを買ったりした。
夜、早めに一人にしては大きなベッドに横になると、いつもとは違って夢も見ずに寝た。
朝になるとベッドのすぐ上の天窓から日が射してきて、目覚ましよりも早く起きた。
目が覚めて、自分の今いる場所を理解するまでに、思っていたほど時間はかからなかった。
とにかくここ2、3年は留学や学部の卒業、キャンパスの移動などで居所を変えることが多かったからでもあるのだろう。前日までの旅行で寝る場所が毎日のように変わっていたからでもあるかもしれない。しかし、それはむしろ、どちらかと言えば、自分の寝る場所に関する一種の諦めのような、すなわち何処に寝ていようと特に構わないというような、そんな気分だったように思える。
もちろんこの部屋で少なくとも9か月は生活をし、5月からは彼女と一緒に住むという比較的安定した生活への希望やちょっとした不安が含まれていたことは否めないが。
とにかく、その日は疲れが溜まっていたこともあるだろう、風邪を引きはじめたらしく、頭の中にホルマリン漬けにされた軽石があるかのように頭痛がした。
軽く朝食をとったあと、ベッドで休み、つまらないSNSを見ながらもう一度寝た。起き上がって少し頭痛が引いたことを感じると、簡単に昼食を済ませてから街に出た。
新年を迎えてSNSでは各々の雑煮の写真が上がっていたこともあって、自分の中での何となくの区切りと、ただ単純に久しぶりに食べたくなったこともあって、ブダペストで雑煮のための餅を探してみようという気になったのだ。
ブダペストの第八区、西駅と東駅挟まれた大きな墓地と、人口比率的に多くのジプシー(ロマ)と中国系移民を抱える地域の中心、Rákóczi広場に佇む市場の一角に、ブダペストで一番大きなチャイニーズ・ショップ(Ázsiai Bolt、アジア商店)はある。
魚醤やチリソース、乾物から様々な麺、自家製の豆腐などの生鮮食品、冷凍食品、お香や茶器までの幅広いものが所狭しと並べられている。
客はアジア系や中東系の他にハンガリー系の人も混じっている。
おつかいを頼まれたような子供の姿もあった。
レジにいる、おそらく中国系の店員は慣れたようにハンガリー語で金額をいう。
僕はカゴをもって店内を見まわした。日本製の醤油が1Lで2000HUFほどしたので小さめの中国産の醤油(300HUF)を手に取った。そのあともイギリスで袋詰めされてたカレーパウダーや、おそらくベトナム製の春雨のような麺をカゴに入れた。
目的としていた餅は甘いものしかなかったため、ベトナム製のグルテンの多い米粉、日本でいうところの白玉粉、を一応買った。
レジで会計をすると中国系の若い女性が早口で中国語らしき言葉を言ったので僕が「Sorry?」と聞くと、だるそうにそこに置いてあった電卓で「1800」と押したので5000HUFを払って、無言でお釣りを受け取り、店を出た。
帰りの地下鉄で色々なことを考えていた。まだ頭痛の収まらない頭で。
やけに整えられた地下鉄4番線の駅と古ぼけた市場の一角のチャイニーズ・ショップ。物にあふれた店内と店主の家族らしき人。中国や日本、ベトナム、マレーシアその他の食材。不自然な日本語の書かれた中国製の食品。冷凍された1200HUFの納豆。手作りの豆腐ともやしのパック。どこからか集まる色々な見かけの人びと。中国語と不器用なハンガリー語を話す店員。
この裕福とはいえない東欧の国で、生きていく人たち。どこか遠くから連れてこられた物たち。
どうにかして僕らはこの地で生きることを決めて、あるいは決められて、生きようとしている。
それは自分の慣れ親しんだ場所を離れることの希望かもしれないし、ここにいるしかないという諦めかもしれない。
属性は大まかに吸収されて、捨象され、抽象される。それを分かるか分からないか、あるいはどうでもいいのか、そのまま供給し、消費する人たち。
とにかく僕たちはそんな雑踏のなかに生きているし、生きざるを得ないのだ。
古いレンガ造りの市場の建物はきっと200年前からそうにしているようにして、大きく、しかし同時に小さく佇んでいた。
太陽をなくす
金曜の授業のあと、クラスメートと先生と一緒にスーパーマーケットでワインとプレツェルを買ってきてウィーン10区の新興住宅地の公園にあるベンチで飲んだ。先生は泊まっているホテル(大学のキャンパス移動の件で、毎週ブダペストから通っている)備え付けのグラス2つを持ってきて、僕はずっとバックパックに入れてある折りたたみのコップ、他の人はウォーターボトルに移して乾杯した。綺麗な芝生とユニークな遊具がある公園は真新しいマンションやまだ建設途中の現場に囲まれている。スカーフを被ったおばさんたちや小さな子供連れの家族、犬を散歩している人、ランニングをしている人たちで公園は賑わっていた。ワインをちびちびと飲みながら、大学の授業のこと、自分の研究のこと、途中大音量で聞こえてきたインドのDiwaliについてなど、いろいろと話した。クラスメートの誰もが勉強を大変だと言っていたことで少し安心した。夕暮れからしっかりと日が沈む8時頃まで話していた。
それからパートナーがブダペストからバスで到着したのでその足でウィーン中央駅まで迎えに行き、地下鉄に乗って部屋で夕食をとる。
土曜日と日曜日は10月末としては「気が狂った」ほど暖かく良い天気だったこともあり、二人で宮殿に行ったり、大聖堂を眺めたり、その近くにあるカフェに行ったり、ドナウ川沿いのベンチで白鳥を眺めたり、部屋で一緒にスシを作ったりして過ごした。
ちょうど日曜日の午前3時に夏時間から冬時間から変わった。僕は1か月定期を持っているけど、パートナーは24時間チケットを買っていたので、25時間使えるから1時間得したね、などと笑った。
日曜の夕方にはチケットの期限は切れていたのでアパートから中央駅まで一緒に歩いて行った。次に会うのは2週間後、ブダペストでの予定だ。いくらバスで3時間の距離とはいえ、なかなか会えないのは寂しい。彼女を送って、アパートに戻った時には残像が見えるようで、何だか一人ぼっちだなと思った。彼女に持たせたサンドイッチの残りのパンと冷蔵庫にあるチーズ、クリーム、ベーコンと一緒に食べる。買ってあった常温のビールをゆっくり飲むと、何も手につかなくなってしまった。月曜には課題があるというのに。気まぐれにSNSを見たりしながら、これではだめだと思い、11月に親友とアムステルダム旅行(彼とは現地集合)の航空券を予約したりした。日曜の夜は早めに寝て、月曜の朝早く起きて課題を終わらせることにした。
月曜の朝起きると、向かいの工事現場では既に作業が始まっていて、少し騒がしかった。いつも起きる8時半ではなく、7時半にアラームをセットして起きた。一時間遅くなったのだから体内時計が調整されていなければ8時半に起きることと変わらないはずなのに、早く起きたときのだるさが全身に染みた。フラットメートにおはようと言ってから、お茶を淹れて作業に取り掛かった。作業は午後の授業の前にはどうにか終わった。
バルコニーに出ると少し霧っぽくて、風が冷たかった。太陽はその姿を見せなかった。きっとこれが普通の10月末のウィーンなんだろう。
冬用のジャケットを来て、トラムに乗りキャンパスに向かう。トラムを待っている間に近くにあるケバブ・ピザ屋でマッシュルームのピザの四分の一を2.5ユーロで買って食べる。マッシュルームが缶詰の物であまり美味しくなかったが、店のおじさんが良い雰囲気だったのでまあいいかと思った。授業では、事前に文献を読めていなかったため、授業の内容を理解するのが難しく、自分に劣等感をかかえながら2コマ連続の授業を乗り切った。
授業が終わる5時頃にはもうすっかり暗くなっていて、僕は太陽をなくしたのだと思った。
ウィーンより
ウィーンに来て3日目。
今日は朝から曇っていて、ちょっと前まではブダペストでTシャツとジーパンだったのに、こちらに来てから少し肌寒いのでオレンジ色のトレーナーを来て外に出る。
昨日の夜遅くまで授業で出された課題の文献を読んでいたけれど、結局読み終わらなくて、自分の関心に近い文献(フィリップ・デスコラの文化/自然の4分類に関して)は少しでも目を通しておこうと思って早起きして、オートミールに牛乳を入れてものと、もらったばかりの葡萄をつまみながら文献を読む。
オートミールは牛乳をいれて電子レンジで温めると、とろとろとしたお粥のようになって美味しいのだけど、このアパートには電子レンジがないのだった。IHの電源を入れて、鍋で調理してもいいのだけど、フラットメートを起こしたくないのと、単純に面倒だったこともあって、乾いたオートミールに冷たい牛乳をいれてそのまま食べたが、ボソボソしてあまり美味しくなかった。
文献の内容は元々知っている内容だったのだけど、英語で読むとあまりすんなり頭に入ってこなかった。
そんなこんなをしていると、既に授業開始まで40分となっていたので急いで支度を済ませて、部屋を出る。
5階から階段ですたすたと降りて、トラムの駅を目指す。車の多く走る大通りを横切ると、ブダペストと比べて排気ガスと煙草の匂いがしないことに気が付いた。
前日の夜に散歩がてら買った定期券を持っていたので、そのまま乗る。木で出来たシートに座ると、少し体が冷えた。
トラムには色々な人が乗り込む。仕事へ向かうような大柄の男性、スカーフを被った女性、子供、大学生風の若者。
トラムに乗っている中で、たった一回きりチケットに刻印する人を見たけれど、皆定期券を持っているのだろうか。それともキセル乗車をしている人も結構いるのだろうか。
大学に着いたは良かったが、新しいキャンパスの教室の場所が分からなかったため、エントランスでうろうろしているとクラスメートがやってきて、事務の人に聞いてくれたので、2階に向かう。
エレベーターに乗ると、PhDの学生のおじさんが一緒だったので少し迷いながら一緒に教室に入る。先生がここだよ、と教室の前で待ってくれていた。
フランス出身の先生の語り口はユーモアを常に交えながらも、自分の考えを共有するようで面白かった。スライドがやけに若いデザインだったのと、全て大文字で書かれていたので読みづらかった。
授業の途中からやけに空腹を覚えたので、休憩時間にもってきていたパスタとサラダを半分くらい食べた。
また別の授業があったので、別の教室に行った。その授業は社会学の古典を読むので、今回の授業はマルクスの資本論だった。たった一部だったけど、クラスメートの発言や先生の言っていることを全て理解できたわけではなく、少し劣等感を覚える。
授業が終わると残りのパスタとサラダを食べて、外に煙草を吸いに行く。クラスメートがいたが直ぐに中に戻ってしまったので、一人で吸った。
外は雨が降って風も強かったので、早く帰ろうと思い、ちょうど来たトラムに乗る。部屋に戻るとフラットメートが起きていて、色々と話をした。誰かと話をすると、落ち着く。
彼はバルコニーの枯れた植物を整理していたそうだ。部屋の中にあった丸い葉っぱの観葉植物が株分けされていて、もともとあった大きな株はキッチンのシンクに置かれていた。彼の友人がつい最近赤ちゃんを産んだから、お祝いにこの植物をあげるのだという。ついでなのか、新しい鉢にバジルが植えてあった。もう少し育ったら料理に使おう。
フラットメートは粟のような穀物を茹で、そのあと野菜や卵と混ぜてオーブンで焼いていた。食べていいよというので、小さなものを一つもらった。
少しすると元気の良さそうな女性の声が聞こえたので、きっとその新しい母親なのだろう。
身体が冷えていたので、また翌日の授業のための別の文献を読みながらベッドに入る。少しすると眠くなってきたので、そのまま昼寝をする。
気が付いたら夕方の6時になっていた。3時間くらい寝ていたのだろうか。身体は温まり、喉が渇いていたので調子は良くなったのだと思った。
マルチビタミンのフルーツジュースと、2日前にスーパーで買ったジャスミン茶を飲んで、また文献を読み始める。
一つの文献が終わったところで再びお腹が空いたので人参をスライサーで削り、クミンとオリーブオイル、クルミと一緒に調理する。
アボカドとオムレツを添える段階でフラットメートがキッチンに来たのでそれぞれ作ったものを食べた。
彼はどこかに出かけたので、自分はコーヒーを入れて文献を読もうとしたが、集中できなかったので、パソコンを開いてTwitterを見た。この時間になると日本の友人、知り合いのツイートはあまり出てこないので少し寂しい。
バルコニーに出て、外の景色を見た。雨はもう上がっていて、風が冷たい。手を触れられるほど近くにある大きな木は風に揺れていた。こんなアパートの立ち並ぶ中にも大きな木があるんだな。でも、数十メートル先には糸杉のようなさらに大きな木が植わっている。その木もまた風に揺れている。
バルコニーからはアパートところどころの部屋の明かりと人影が見える。一つ一つの生活は僕の知らない間にもここにあったし、僕が年末にここを去ってもまた続くのだろう。ずっとここに住んでいる人、去る人、新しく来る人。
冬が来るな、と思った。今年はどんな冬になるのだろうか。身体が冷えてきたので部屋に戻って、窓をがちゃりと閉めた。
気分は初夏の風のように
家のリビングルームから見える小さな庭は、新緑が強くなりつつある太陽光を透過することによって生まれる、柔らかな影に満ちている。
影たちは穏やかな風に靡き、つがいのアゲハチョウが何処かから舞ってきては、何処かに去っていく。
お気に入りの黄色い自転車で、目的地も決めずにサイクリングに出た。
地元というのは恐ろしいもので、何も考えなくても、自分が思いついた方向に行くことが出来る。
梅の花が綺麗だった一角は宅地になった。変わった家屋、変わらない町工場。
青空には近くにある自衛隊の軍用機が音を立てて飛んでいる。
久しぶりに見る地元の景色で、微かな思い出―それはほろ苦かったりもする―を頭に浮かべては、少し足を速めて、自転車を漕いだ。
歩行者信号が点滅し始めた時に横断歩道を渡ったら、右折待ちをしていたトラックの運転手に何か甲高く怒鳴られた。
気持ちは揺れ、うつむきながら帰路につく。
進んでいくうちに風が強くなってきた。
気分は少し回復していて、僕は汚くも綺麗でもない川の橋を渡る。
突然、僕の中で「生活」が現前し、人間の、そして自分の生というものが生々しく感じられた。
その一瞬を過ぎるとまた、僕はいつも僕に戻る。
自分の家はそこにあり、リビングルームには電気が灯っている。
***
夜10時には両親はそれぞれの部屋に行って眠り始める。
僕はリビングルームにあるソファに腰を下ろしながらスマートフォンでタイムラインに表示されるニュースや、研究者のつぶやきや、アートや、猫の可愛い動画を見たりする。
目が疲れたりすると自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。
左向きになれば、すぐに眠れることを僕は分かっていて、気が付かない間に眠りに落ちている。
最近、朝4時ごろに目が覚めることが多くなった。
カーテンの向こう側では朝が始まりかけているが、僕はただ横になったままだ。
孤独を感じ、邪悪な感情が自分を支配する。
貴方が恋しくなって、送っておいたメッセージへの返信があるかどうかをチェックする。向こうではまだ夜の9時だから、何かを送ってみる。
メッセージの右下にあるチェックマークが一つ付けば送信が出来たこと、二つ付けば向こうに届いたこと、それが青色に変われば相手が読んだことを意味する。
送ってすぐに青色に変わったことを確認すると僕はほっとする。
2、3通のメッセージをやり取りしていると目が疲れてくるのでまた眠る。
メッセージがないときは少し狼狽える。
ときどき不安になる。
誰かを信じられないことは、自分が信じられないからだろうか。
誰かを信じられないことは、絶対的な存在としての神を信じられないからだろうか。
気分は初夏の風のように変わる。
また朝が来て、一杯の水を飲み、生活が始まる。
夜にカーテンを開けて
静かな夜。
一人で部屋にいても、隣に誰かが寝ていても、
ふと自分がこの世界に、たった一人なんだと思うことがある。
そんなときは、けだるそうにスマホの画面を付けて、
その眩しさに一瞬だけ目を細めて、明るさを調整してからSNSを見てもいい。
そこには、政治の話から、どこかで見たことがあるような「おもしろ動画」、寝ていないどこかの他人のピンと張った一言、素敵な音楽が溢れている。
雑多、雑多、雑多。
どうせつまらないもの。
でも、そんなものたちで、僕らは一人ではないことを感じられるのかもしれない。
それでもどうしようもない時もある。
天井の蛍光灯を付けてみる。
その時の僕には、蛍光灯の光は強すぎる。
カーテンと壁紙と日常の物たちに囲まれたいつもの部屋は、平面で僕を飲み込みそうになる。
空間が迫ってきて、僕は小さくなっていく。
体育座りをするような感覚。
暗い部屋のカーテンの隙間から光が漏れている。
今は部屋のほうが暗い。そう、外のほうが明るいのだ。
僕は思い切ってカーテンを開ける。
今日は曇りで、夜空は灰色だ。
建物の形が、はっきりと見える。
少し離れた家の部屋が一つだけ電気を付けている。
人間、光、生活。
悪くないね。
部屋の常夜灯が月みたいに窓に映る。
ついでに自分の姿も少しだけ映る。
余っていたキャンドルもつけてみた。
うん、もう大丈夫。
落ち着いたら眠りにつくことにしよう。少しだけ踊るような、それでも優しい音楽を聞きながら。
勉強をしていた日々
海外の大学院入試のための英語の試験を何度か受けてみたが、若干足りなかったりして今でもまだ対策を続けている。
二月後半は引っ越しとか、いろいろ用事があって、なかなか英語の勉強に専念することが出来なかったため、今追い込みをかけている。
もちろん少し毛色は違うのだけど、朝から晩まで同じように勉強をしていると、やはり受験の時を思い出す。
ちょうど5年ちょっと前、同じように、この実家の汚れた机の上に向かっていたな。
自分でもよくやったと思う。
センター試験の前2週間ほどは、高校を休んで、塾の自習室に籠って、朝から晩まで勉強をしていた。
今はできないような気がする。
今、英語の試験対策をやっていて、どうしても集中力が切れる。
まあ、ずっと英語だから仕方ないと言えば仕方ないかもしれないけど。
頭に入ってこない。
しばらくすると、別のことを考えたりする。
やる気がでない。
腰を上げるのが重い。
自分の出来なさを認めなければならないことがつらい。
受験の時は、競争心と自尊心を持っていたような。
塾の中では一番であって、自分が一番努力していることに自信があったような気がする。
あるいは、「全国」を相手に恐れ、虚勢を張っていたのかもしれないけど。
今は、とにかく、自分のペースでやらなければならないし、自分が出来ないことも自分で管理しなければならない。
例えば、高校までの「勉強」がいかに決められたことを早く、正確に解答するかということだったのに対して、まもなく卒業する大学からの「勉強」では、自分で課題を見つけて自分なりの方法で解決するということであるとよく言われる。
それならば、大学受験における勉強とは、その高校までの勉強の最高地点であり、そこから先は崖のように忘れ去られるものかもしれない。
僕は、そのようにして捨て去った「勉強」を、やれやれと拾ってきて、また四苦八苦している。
泥だんごの作り方は忘れてしまった。
しかし、勉強はやるしかなく、必要な点数を出すまで解放されない。
そんな日々をもう少しだけ続けなければ。