世界を配置=制作すること

(なんか某論文をもじったみたいになっているけど、これがタイトルとしてしっくりきたので。)

 

以前、Twitterにも書いたのだけれど

何となくもう少し形にしたかったから書いてみる。

 

 

この世界は果てしなく膨大だ。

例えばインターネットで何かを検索してみると膨大の情報が出てくる。

そしてもちろんインターネットなんて世界の一部でしかない。

 

自分の知らない土地、人、歴史、芸術、文学、音楽、感性…

いくら物知りの人だって、いくら長生きの人だってすべてを知ることなんてできやしない。

そして全てを知ることに人生を費やすことなんて時間の無駄だ。

どうせそんなことをしたって知ることができるのは一部にすぎないのだし

ひとつひとつのことをないがしろにしてしまえば元も子もない。

 

このように考えていけば自分の存在が恐ろしいほどちっぽけに思えてきて

いっそ死んでしまっても変わらないんじゃないかとすら思えてくる。

 

この一瞬一瞬に生まれてくる生物。

いくら高性能の望遠鏡を使っても見えないような小さな星。

世界の一部とすら言えないようなものたちが生まれては死んでいく。

誰も何も気づかないし、誰も何も気に留めない。

世界は死んで消えていったものなどなかったもの見向きもしないで流れていく。

 

無力感。

世界の膨大さに足元が崩れ去る。

全てを知ろうともがけばもがくほど。

 

世界を知ることなんかやめてしまおうか。

そんな虚無感にさいなまれることがある。

 

でも時々素晴らしいものに出会うともっと知りたくなる。

あきらめてしまうには愛おしくて美しいものがたくさんある。

しかしさらに知ろうとすれば再び世界の膨大さに目がくらむ。

 

この世界をどうすればいいのだろうか。

この矛盾を抱えたまま長い間過ごしてきた。

 

でもあるときひとつのことに気が付く。

それは小さめでありながらも素晴らしい世界を配置=制作している人に出会ったときだ。

彼らは自分の世界を持っていて、それを通して世界の断片たちを配置している。

文章や音楽や写真や色彩や…。

とにかくその人が配置するすべてのものが彼らを囲んでいる。

人びとはそれをセンスともいうのかもしれないが

そんな格好つけて主体的にものを自分の周りに縛り付けているイメージではなくて

モノや人、文章、音楽、色彩までもがその人のもとにトコトコ歩いてきて座って話を聞くような

そんなイメージだ。

 

仮に自分がそれまでに知っていたものでもその人のもとでは見違えて見えたりする。

街ですれ違っても気が付かないような人やモノもその人の周りで再び出会えば

素敵な世界が出来上がっている。

 

そして

このちっぽけな人生でどれだけそのような人たちに出会えるかが

この膨大な世界と付き合う方法なような気がする。

でも、この人たちは探したところで出会えなくて、風が運んできてくれるのを待つだけだ。

それでいいんじゃないか。それがいい。

 

 

ところで、このことを考えるようになったのは

もう一つのブログでも書いた人類学者・批評家の今福龍太と

アパートメントというウェブマガジンで知ったkumaさん

たまたまネットで見つけたshinzomakotoさん

youtubeで映画クリップに素晴らしい音楽をつけたi'm cyborg but that's ok

に出会ったことがきっかけ。

今福は言わずと知れているのでkumaさんとshinzomakotoさん、i'm cyborg but that's okのチャンネルを紹介して終わりにする。

apartment-home.net

www.shinzomakoto.com

www.youtube.com

 

それでは。よい世界を。