可能性couldの切なさ
I could be perfect, I could die.
可能性としてのcould。
どちらも果たせなかった。一瞬のモーメントはそれまで積み上げてきた犠牲、散らかった潜在性を破壊し、生々しいほどの現実を突きつける。
couldはcanの過去形だと学校では教わったけど、それが意味するのは可能性なんだ。
何かを「できる」ことが過去になると「できた」こと、つまり不可変の現在から過去を後ろ向きに振り返って、その時に持ちあわせていたはずの可能性を語ること。
それはノスタルジーであり、自慰行為でもある。
宇宙ゴミのように可能性として取り残されてしまった僕の「他の」過去はどこにあるのだろう。
どうとでもありえた僕の過去。
* * *
可能性となったcouldは未来にも旅をする。
「俺、今はこんなに頑張ってやっているけど、いつか糸が切れたみたいに、ふっとやめちまうかもしれないぜ。」
彼はそう語った。couldを用いて。
それは未来の選択肢への希望ではなくて、未来の不確定性への不可知論的絶望。
可能性couldの切なさ。