Dreaming of You

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一人で考える時間が長いと、なんだか昔に戻ったみたいだと思う。

ことがあるごとに何かを考えていた。

そのときを思い出すと、生ぬるい春の日射しを黄色い自転車で走ったことや、霧っぽい夜道をほろ酔いながら歩いた光景が浮かんでくる。

昔、気が狂ったようにリピートして聴いていた曲を久しぶりに聴くと、どこかが痛くなって、少し目が潤んでくる。

そのときに浮かぶ過去は、聴いていた時期の一点の光景と感情を瑞々しいというよりは、むしろ集積されていながらも細切れになって取りとめもないモーメントがふつふつと曖昧にわき上がってきては、意識がその光景の時期と感情を特定する前に過ぎ去ってしまう。

とりとめのない気持ちを、あなたの写真をスクロールすることによってどうにか暴れ出すことを抑えることが出来る。

その横顔をこのふわふわとした脳裏に一度でもうつせば、どこかで会えるだろうか。

Dreaming of You. 夜か朝かも分からない夢の中。


Cigarettes After Sx - Dreaming Of You

あれから

あれからずっと考えている。

料理を作っているときとか、皿を洗っているときとか、シャワーを浴びているときとか。

自分は悲しいんだろうか、涙は出かかって出ない。

一体何が悲しいのだろうか。

今まで誰かが亡くなったときに、それを電話で聞いたり、文面で見たりした瞬間に泣いたこと、悲しみがこみ上げてくるような感覚になったことはない。

そのときにするりと涙がこぼれる他人の様子を不思議そうな顔で、気まずいような気持ちで横目で見ていた。

自分はといえば、少し胸のどこかがくすぶって、重くなるような感覚だけが通り過ぎていく。

ある程度落ち着いた水面に、滴が落とされて、波紋をゆっくりと広げている。

誰かと何らかの形で共有した時に、自分自身の言葉や考え方が、投げかけられた言葉や表情に揺らされて、波のように少し泡立つ。半分くらい囲われた場所、港のような場所で、板に当たって跳ね返る。岸にある大小の石に波が当たって砕ける。反射した波は最初の波とぶつかって、大きな高さになる。水面は落ち着きと規則性をなくす。柔らかい波と激しい波が不定期に訪れる。その度に僕は狼狽する。

 

何が悲しいんだろう。

それは、その一つの存在がこの世界からなくなってしまったことなんだろうかと思う。

その存在に含まれた物質や時間や未来。

肉体と思い出とこれから。

それらがどうしようもなく消えてしまったこと。

 

感傷的になる自分と、それを良しとしない自分がいる。

良しとしないのは理性なのか、照れなのか、自分への罰なのか。

現実感がないだけなのか。

今日もそんなことが分からずに生きている。

祖父の死

祖父が亡くなった。

97歳の大往生だった。

ときどき身体の痛みを訴えながらも何度も回復し、自炊して食べるほど健康だった。2週間ほど前に腰が痛くて自宅で横になっているという話だったが、両親が会いに行き、食事を用意すると十分に食べ、少し体調もよくなったと聞いていた。

僕がハンガリーにいることで、スマホもパソコンも持っていない祖父とは話すことはここ一年くらいできなかった。

去年の初夏、日本を出る前に会いに行って、一緒に温泉に入った。僕は祖父の手を取りながら、湯に浸かった。祖父は自分の足が細くなったことを、骨と皮になりつつあると達観したように話した。

その最後の時に、元気でな、と笑顔で送り出してくれた。僕は、また夏ごろに帰ってくるから元気でね、と言ったが、祖父は相づちを打ちながらも、自分はいつ死ぬかも分からないから、とあまり気にしていないように思えた。

先日両親が会いに行った時に、母は自分のスマホで代わりに電話をかけてくれたが、こちらはまだ朝早く、また僕のスマホの充電が切れていてならなかったので、かけ直した時には両親は自分たちの家に帰る途中だったので話すことはできなかった。

コロナウイルスの影響もあって、夏には帰れなそうだが、冬に調査を兼ねて帰国するという話を伝えたところ、もう少し頑張ってみようと言っていたらしい。

昨日の夜、夜中に目が覚めて、2、3時間眠れなかった。朝遅く起きてスマホを確認したら、祖父が亡くなったと母から連絡が入っていた。

実家から遠い東京のほうに住んでいる兄夫婦にも、状況が状況だから、まだ別れを告げに行かなくてもいいと、言っているという。

僕は日本を出るときに、自分が遠いうちに祖父が亡くなることを危惧していた。しかし、だからといって自分の新たな生活のために、ここに来ることにも祖父は賛成してたと思う。

でも、その危惧が現実になってしまった。スマホのアプリの文面ではあまり現実感がないのだけど。

それでも、やはり亡くなってしまったんだろうなとは思う。

父母ともにそれぞれの実家から遠い場所に住んでいて(母の実家は沖縄で、父のは和歌山で、彼らは名古屋の近くに住んでいる)、僕は小さい頃から親戚の死というのは、とても遠く、すぐには訪ねられない場所で起こり、電話で知った。

だから、遠いことには変わりはない。でも、一日かかっても訪れられないほど遠くは無かった。

自分がここに住み続けたら、これから親しい人が遠くで亡くなってしまうのかと思うと、憂鬱になる。どうしようもない気持ち。そんな哀しみを背負いながらも生きていかないといけないんだろう。

祖父は、自分が幼い頃から年数回会いに行くと、喜んでくれて、幼い自分にとっては大きすぎるような額のお小遣いをくれた。祖父は年金暮らしで、お金もあまりいらないから、子供や孫に渡したいと言っていた。

80代後半のころまで畑では野菜の世話をしていて、僕ら孫が訪ねると、一番楽しい収穫をやらせてくれた。一緒に庭の世話をしたこともよくあった。祖父はとにかく畑が好きで、祖父の家で朝起きると、日が明けた頃から祖父は草抜きをしていた。日が昇った頃には休憩で、砂糖とミルクのたっぷり入ったアイスコーヒーを差し入れた。

国鉄に勤めていた祖父は若い頃、戦争で当時の満州まで行って鉄道敷設と戦闘をして、爆撃を近くで体験して、仲間を失いながらも生きて帰ってきた。多くを語らなかったが、戦後70年以上経っても、当時の場景をときどき夢に見てうなされると言っていた。

長年連れ添った祖母が亡くなったとき、涙を流しながら、赤十字の活動への支援とキリスト教的なものへの親しみを持っていた祖母をマリア様のようだったと語っていた。家には祖母が亡くなった後にも、擦りガラスに赤いビニールテープで貼られた十字が残っていた。

祖父は勉強家で、詩吟を習い、中国の古典を辞書を引きながら読んでいた。仏教への関心も強く、自分で覚えた念仏を唱えていた。晩年、彼が安らかなように生活を送れたのは、仏教への強い親しみからなのかと思う。

身の回りの整理をするように、僕らが訪ねる度に自分の本はいらないかと、配っていた。僕の実家の本棚にもそうして貰った本がいくつか置いてある。

 

たまに冗談のように祖父は「朝起きたらそのまま死んでいたら幸せだ」というようなことを口にしていた。それは悲しみというよりも達観したような言葉だった。

彼の最期は彼の願いのようなものだったのだろうか。

僕はどんなふうに生きていけばいいんだろうか。

すぐには答えは出せなさそうだけど、今は遠い空から祈るしかない。

R.I.P. 安らかにお休みください。 

曇りの春空

早朝から雨がベッドの真上にある天窓を叩いていることを気にしながら、半分眠りにつきながら横たわっていた。

充電していたスマホが机の上でアラームを鳴らしていて、やれやれと思いながら立ち上がってアラームを止め、そのままSoundCloudを開いて、適当なミックスを流す。

朝食にターンオーバーを焼いたが、塩のかかり具合にムラがあって、部分的にしょっぱかったりした。

音楽をスマホからBluetoothヘッドフォンに繋ぎ直して、そのままコーヒーを飲みながらベランダで煙草を吸う。

雨は霧雨になっていて、湿度が高い。こんな時は煙草が空気の湿度と混じってまろやかになる。吐く息も白く、細かくなる。

Roth Bart Baronが「アルミニウムの空」と表現したような空。いや、それよりもちょっとだけ明るいかもしれない。

ベランダの目の前にある大きなマツの木の緑緑した葉に雫がついていて、生きていることの静かさを表しているような気がする。


ROTH BART BARON Aluminium (UK mix)

不思議な世界

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少し用事があったので、近くに住むクラスメートたちと駅で待ち合わせた。今日はことさら風が強かった。

彼女らは寮から2キロほど歩いてきたみたいで、約束していた時間通りには来なかった。

このターミナル駅では外出禁止令でそれでこそ人は減ったが、それなりに乗り降りする人がいる。日曜の午後なのに。

今日がハンガリーでの母の日だから、駅の出口や地下通路の殺伐とした空間に花を売る人たちがいる。ほとんどの人が見向きもせずに通り過ぎていく。外出禁止と花売りの女性。

その横ではだんまりと決め込んだ中年の男達がたむろしている。一人の女性が近づいていくと何やらみんなで話している。

逆側にも男達が集まっている。その男達の誰もがマスクすらしていない。ある男が陽気な声で、集まっている男たちに声を掛け、握手し、笑顔で抱擁している。これまではそこらじゅうで見たような光景が、酷く不自然に感じられ、僕は「命知らずだな」と思った。それがどういう意味なのか自分でも分からなかった。隣でN95のマスクをした女性が通り過ぎていく。

バス停ではホームレスらしき人がパーリンカウォッカの小瓶が4ダースほど包まれた段ボールのパックを地面に置いている。破られた角の小瓶は無くなっている。彼が飲んだのだろうか。飲むならばなぜ割安なはずの大瓶を買わないのだろうか。分からない。

通りのおおい道で急に車が止まり、クラクションが鳴った。誰かを呼んでいてのだろうか。

クラスメートたち各々サングラスにマスクをつけていたり、何をつけていなかったり、サンダルにウエストを出したようなちぐはぐな格好だった。

「そっちの生活はどう?」と聞くと「何とか生きてるよ」と笑った。

一人が「ケバブ食べる?私たちこのために来たようなものだよ。ああ、最高。」とケバブを買う列に並んだので、僕も並んで塩気のあるヨーグルトのような飲み物のアイランと一緒にケバブ・トルティーヤを買った。

そのあと彼女らが路地販売されているイチゴを買うのを待ってから、ケバブを食べる場所のために少し歩いた。

「母の日おめでとう」と花売りが声を掛けてくる。僕らは目もくれず歩く。

「ここいいじゃん!」とちょうどよく腰を掛ける場所を見つけたので、皆で座った。

「消毒スプレー使う人いる?」とスプレーを回して、各々手に吹きかけてからケバブのアルミホイルをめくる。

食べ終わった頃、スズメが驚くほど近くまで近寄ってきて首をかしげる。落ちていたケバブの破片をついばむ。

「あら、かわいいね!」と皆夢中になってケバブの生地をちぎって放る。さらに沢山のスズメが近寄ってくる。一人が、先ほど買ったパンをバックから取り出して、ちぎって放る。他の人にも渡して、皆で放る。パンにスズメが群がっては、そのうちの一羽がくちばしで抱え、何処かへ持っていく。

「手の上でも食べるかな?」と言いながら手の上にパンを乗せたり、靴の上に乗せたりした。その様子を動画に撮ったりした。

「誰も餌をあげなくなったから、飢えてるのかもね」とパンを放った。

近くで急にサイレンのような警報音が鳴る。警察が来たのかと思ったけど、宅配ロッカーの扉が開きっぱなしだったからだった。そんなに大きなサイレンで知らせなくてもいいのに。

スズメに加えてハトも来た。皆飢えているのかもしれない。近くで見るとスズメもハトもそれぞれ個性がある身なりをしている。スズメに2パターンの柄があって、派手なほうがオスかな、などと話をした。

ふと周りを見回すと、迷彩服に赤いベレー帽で大型の銃を持った兵士が二人組を近づいてくるのが見えた。

慌てて「じゃあ、またいつかどこかでね」とその場を去る。

変に怪しまれないように、ゆっくりをその場から遠のく。

バスに乗ってアパートに戻る。

風に当たったせいか、酷く身体が疲れていた。ベッドで横になって、むさぼるようにしてスマホを見た。何も興味のあるものなんか無かったのだけれども。

なんだか、世界が急に不思議なものになってしまったような気がした。

当たり前だったことが不可思議に思えてくる。スズメもハトもそれまで人間の餌付けのエコロジーから外れてしまったようにして暮らしているのかもしれない。彼らは人間を覚えているのだろうか。この状況が続けば世界は一体どうなってしまうのだろう。二か月もまだ経っていないというのに。

帰り道、今まで聞いたことのないような声の鳥が鳴いていた。

帰れぬ人びと

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日本からヨーロッパに向けて旅立つとき、それは七月の終わり頃、まだ蒸し暑さもない、さわやかな夏の初めだった。

文学好きの大学の友人が餞別として本を送るということだったが、結局出発までには間に合わず、さらに数か月が経って、僕がウィーンにいるときに住んでいるアパートまでわざわざ日本から送ってくれた。

二冊の本と、ささやかな贈り物が小さな小包には入っていた。その本の一冊が鷺沢萠の小説『帰れぬ人びと』だった。

ウィーンにいるときから、つい最近まで小説を読む余裕が無く、いつも持ち歩くバックパックのポケットに入れたままだった。ブダペストに戻ってからしばらくした三月中旬、コロナウイルスによる大学キャンパスの閉鎖、学生の負担軽減のための課題の削減があって時間が出来たこと、外出禁止令で外に出られないこともあって、この薄い短編集を読み始めた。

なによりも、その題名がとても自分の状況に合っているような気がしたのだ。

 

帰れぬ人びと

 

キャンパスが閉鎖され、授業がオンラインに切り替わると同時に、沢山のクラスメートたちが知らないうちに、それぞれの国に帰っていった。パートナーのいる国に行った人もいる。次々と色んな地域で感染が広がり、国境が封鎖され、外出が出来なくなった。徒歩で三〇分くらいで行ける場所にある寮に住んでいるクラスメート達にも会えなくなり、クラスのグループチャットには入り乱れた情報、不安、そして別れの挨拶とそれへの応答のemojiが並んでいた。

僕は大学から毎日来るアップデートのメール、気づけば80件も未読メッセージが溜まるグループチャットすらも確認することが面倒になって、パートナーとたわいもない会話をしたり、料理を作ったりして気を紛らわせた。そして、ひと一人が立つことしかできない小さなベランダで手巻きの煙草をゆっくりと吸った。

 

僕がアパートを借りて住んでいるのはブダペストの少し東側、リスト・フェレンツ空港までもそこまで遠くないところだ。いつもはよく飛行機が上を飛んでいる。

冬時間も終わる頃の三月のある日の夕方、エジプト出身でドバイに家族と住んでいるクラスメートがグループチャットで急なお別れの挨拶をしていた。その夜は寮でお別れ会をするらしい。僕は歩いて参加しに行こうかと思ったけど、やっぱりやめた。

夕食をとった後、春の初めの生暖かい風にのって煙草を吸う。まだそこまで遅くない時間でも空には星が出ている。ベランダの上を飛ぶ飛行機の数も減ったように思う。

そんなとき、割と低い位置で、たった今空港から離陸したばかりの飛行機が、両翼のライトを交互に点滅させながら加速し、飛び立っていった。

僕は、その飛行機が、まるでここから足早に立ち去ろうとしているように思えた。それに乗る人たちは最後のチャンスを掴むようにして、飛行機の中で座席についているのだろう。恋人に会いに行く人、家族に会いに行く人、家に帰る人…。

僕は煙草と吸いながら、自分が取り残されたような気がした。

 

「おれには帰る場所なんてない」

 

日本に帰ったところで、大学時代住んで拠点としていた街にはアパートはとうの昔に引き払っているし、実家に帰ったところで近くに友人も多くはいない。大体、今の生活を急にやめて、パートナーをここに置いて、何になるというのか。

日本を発つとき、しばらくは戻ってこないことを当たり前のようにして思っていた。そこは帰る場所ではない。

だからといって、何年住むかもわからないこのブダペストのアパートも帰る場所ではない。

 

* * *

 

この鷺沢萌の短編集の中にはいつも帰る場所がない人たちが登場する。

社会の中で出自の不安定な人。家を失った人、奪われた人。早くに親を亡くした人、離別した人。逃げるようにして引っ越しを続ける人…。

東京の、中心ではない場所にある埃っぽい街の歴史と風景、そこに住む人たちの小さな物語。

聞きなれない地名を表す錆びついた看板、混み入った路地、用水路と町工場のにおい。そこに漂う愛おしさと儚さ。胸が苦しくなるような哀愁。

そうだ、僕らだって、帰る場所なんてないんだ。

 

* * *

 

題名にもなっている短編『帰れぬ人びと』には「大鳥居」という地名が出てくる。

僕はこの地名に何となく記憶があって、それがいつだったのか思い出そうとした。

しばらくして、ようやく思い出した。それは僕が、地元に住む友人とインドで落ち合ってからする旅に出るために、翌日の羽田空港発の早朝便に間に合うようにと、当時付き合っていた彼女と泊まった場所の近くだった。

当時付き合っていた彼女は、その一週間くらい後から一年ほど海外に行く予定があったため、僕の旅行について良く思っていなかったが、見送りに来てくれるということだった。

羽田空港までのシャトルバスがあったこともあって、大鳥居の近くのホテルに泊まることにした。小さな駅を降りると人通りの多い商店街や古ぼけた中華料理屋があった。まるで数十年前の東京に来てしまったような落ち着かない気持ちで小さな居酒屋に入って夕食を取り、ホテルの小さい部屋に入ったのだった。

その夜、彼女は子どものように泣いて、僕はなかなか寝れなかった。

早朝に起きて、寝ぼけた頭のまま僕は韓国で乗り換え、インドに向かったのだった。

 

今思い出しても、大鳥居の周辺の街は何だか夢だったんじゃないか、というような気がする。

そして、その街の風景は、僕の頭の中で急に、小さい頃に見た、実家の最寄り駅の旧駅舎のトタンの錆び、でこぼこなアスファルトに伝わる振動、走り抜ける電車の騒音の記憶の欠片がオーバーラップして響き合うのだ。

改修されてコンクリート造りとなった今の駅舎からは取り戻せない風景と記憶。

昔の彼女との関係、記憶。

取り戻したいわけでもなければ、懐かしむわけでもない。

ただ、そのどうしようもない断片たちが曖昧なまま存在をなくしつつあることに少しの恐れと諦め、そして希望がある。

帰る場所のない、記憶のかけら。

 

* * *

 

帰る場所がある人をうらやむ気持ちがある一方で、一つの場所に帰属することも僕は信じていない。

それは鷺沢萌の物語に出てくる人びとのように、ある種の熱っぽさと老いを同時に抱えることでもある。

旅を続けることにおける、何らかの夢と逃避の裏表だ。

どこでも生きていける楽観と、帰る場所がない寂しさだ。

 

「おれには帰る家がない。故郷がない。国がない。世界がない。はじめっからなかったんだ そんなものは…。」寺山修司

 

帰れぬ人びと (講談社文芸文庫)

帰れぬ人びと (講談社文芸文庫)

  • 作者:鷺沢 萠
  • 発売日: 2018/06/10
  • メディア: 文庫
 

 

ブダペストのチャイニーズ・ショップ

朝から二日酔いの終わりかけのような頭痛が治らなかった。

 

その前日には、はるばる日本から来てくれた兄夫婦と兄の奥さんの母と一緒だったウィーン、ブラティスラバ、ブダペスト中欧三都市をたどる旅行も終わりを告げ、ブダペスト東駅で見送ったばかりだった。

彼らの電車を見届けた後、そのまま大きな荷物を持って、話をつけていたブダペストの東側にある三階建ての家の屋根裏の一室に引っ越しをした。

持っていた荷物は、ウィーンでの3か月のために持っていた大きなスーツケースといつも使っているバックパック、そして日本からのお土産が入ったままもらったトートバッグだった。

地下鉄とバスを乗り継いで、さらにそこから8分ほど歩いて、少しだけ迷いながらもたどり着いて、ベルを鳴らすと、すぐに大家さんが出てきてくれて鍵を開け、部屋を案内してくれた。

「じゃあ、また困ったら何でも声をかけてね」と優しく笑うと大家さんは下の階の自らの家に戻り、僕はだだっ広い部屋に一人残された。

ベッドに横になっても何だか落ち着かず、慣れない手つきで鍋で湯を沸かしてお茶を淹れたり、荷解きをしたり、歩いてスーパーマーケットに行ってパンとサラミ、サラダ、オリーブオイルを買ったりした。

夜、早めに一人にしては大きなベッドに横になると、いつもとは違って夢も見ずに寝た。

朝になるとベッドのすぐ上の天窓から日が射してきて、目覚ましよりも早く起きた。

目が覚めて、自分の今いる場所を理解するまでに、思っていたほど時間はかからなかった。

とにかくここ2、3年は留学や学部の卒業、キャンパスの移動などで居所を変えることが多かったからでもあるのだろう。前日までの旅行で寝る場所が毎日のように変わっていたからでもあるかもしれない。しかし、それはむしろ、どちらかと言えば、自分の寝る場所に関する一種の諦めのような、すなわち何処に寝ていようと特に構わないというような、そんな気分だったように思える。

もちろんこの部屋で少なくとも9か月は生活をし、5月からは彼女と一緒に住むという比較的安定した生活への希望やちょっとした不安が含まれていたことは否めないが。

 

とにかく、その日は疲れが溜まっていたこともあるだろう、風邪を引きはじめたらしく、頭の中にホルマリン漬けにされた軽石があるかのように頭痛がした。

軽く朝食をとったあと、ベッドで休み、つまらないSNSを見ながらもう一度寝た。起き上がって少し頭痛が引いたことを感じると、簡単に昼食を済ませてから街に出た。

新年を迎えてSNSでは各々の雑煮の写真が上がっていたこともあって、自分の中での何となくの区切りと、ただ単純に久しぶりに食べたくなったこともあって、ブダペストで雑煮のための餅を探してみようという気になったのだ。

 

ブダペストの第八区、西駅と東駅挟まれた大きな墓地と、人口比率的に多くのジプシー(ロマ)と中国系移民を抱える地域の中心、Rákóczi広場に佇む市場の一角に、ブダペストで一番大きなチャイニーズ・ショップ(Ázsiai Bolt、アジア商店)はある。

魚醤やチリソース、乾物から様々な麺、自家製の豆腐などの生鮮食品、冷凍食品、お香や茶器までの幅広いものが所狭しと並べられている。

客はアジア系や中東系の他にハンガリー系の人も混じっている。

おつかいを頼まれたような子供の姿もあった。

レジにいる、おそらく中国系の店員は慣れたようにハンガリー語で金額をいう。

僕はカゴをもって店内を見まわした。日本製の醤油が1Lで2000HUFほどしたので小さめの中国産の醤油(300HUF)を手に取った。そのあともイギリスで袋詰めされてたカレーパウダーや、おそらくベトナム製の春雨のような麺をカゴに入れた。

目的としていた餅は甘いものしかなかったため、ベトナム製のグルテンの多い米粉、日本でいうところの白玉粉、を一応買った。

レジで会計をすると中国系の若い女性が早口で中国語らしき言葉を言ったので僕が「Sorry?」と聞くと、だるそうにそこに置いてあった電卓で「1800」と押したので5000HUFを払って、無言でお釣りを受け取り、店を出た。

 

帰りの地下鉄で色々なことを考えていた。まだ頭痛の収まらない頭で。

やけに整えられた地下鉄4番線の駅と古ぼけた市場の一角のチャイニーズ・ショップ。物にあふれた店内と店主の家族らしき人。中国や日本、ベトナム、マレーシアその他の食材。不自然な日本語の書かれた中国製の食品。冷凍された1200HUFの納豆。手作りの豆腐ともやしのパック。どこからか集まる色々な見かけの人びと。中国語と不器用なハンガリー語を話す店員。

この裕福とはいえない東欧の国で、生きていく人たち。どこか遠くから連れてこられた物たち。

どうにかして僕らはこの地で生きることを決めて、あるいは決められて、生きようとしている。

それは自分の慣れ親しんだ場所を離れることの希望かもしれないし、ここにいるしかないという諦めかもしれない。

属性は大まかに吸収されて、捨象され、抽象される。それを分かるか分からないか、あるいはどうでもいいのか、そのまま供給し、消費する人たち。

とにかく僕たちはそんな雑踏のなかに生きているし、生きざるを得ないのだ。

古いレンガ造りの市場の建物はきっと200年前からそうにしているようにして、大きく、しかし同時に小さく佇んでいた。