祖父の死

祖父が亡くなった。

97歳の大往生だった。

ときどき身体の痛みを訴えながらも何度も回復し、自炊して食べるほど健康だった。2週間ほど前に腰が痛くて自宅で横になっているという話だったが、両親が会いに行き、食事を用意すると十分に食べ、少し体調もよくなったと聞いていた。

僕がハンガリーにいることで、スマホもパソコンも持っていない祖父とは話すことはここ一年くらいできなかった。

去年の初夏、日本を出る前に会いに行って、一緒に温泉に入った。僕は祖父の手を取りながら、湯に浸かった。祖父は自分の足が細くなったことを、骨と皮になりつつあると達観したように話した。

その最後の時に、元気でな、と笑顔で送り出してくれた。僕は、また夏ごろに帰ってくるから元気でね、と言ったが、祖父は相づちを打ちながらも、自分はいつ死ぬかも分からないから、とあまり気にしていないように思えた。

先日両親が会いに行った時に、母は自分のスマホで代わりに電話をかけてくれたが、こちらはまだ朝早く、また僕のスマホの充電が切れていてならなかったので、かけ直した時には両親は自分たちの家に帰る途中だったので話すことはできなかった。

コロナウイルスの影響もあって、夏には帰れなそうだが、冬に調査を兼ねて帰国するという話を伝えたところ、もう少し頑張ってみようと言っていたらしい。

昨日の夜、夜中に目が覚めて、2、3時間眠れなかった。朝遅く起きてスマホを確認したら、祖父が亡くなったと母から連絡が入っていた。

実家から遠い東京のほうに住んでいる兄夫婦にも、状況が状況だから、まだ別れを告げに行かなくてもいいと、言っているという。

僕は日本を出るときに、自分が遠いうちに祖父が亡くなることを危惧していた。しかし、だからといって自分の新たな生活のために、ここに来ることにも祖父は賛成してたと思う。

でも、その危惧が現実になってしまった。スマホのアプリの文面ではあまり現実感がないのだけど。

それでも、やはり亡くなってしまったんだろうなとは思う。

父母ともにそれぞれの実家から遠い場所に住んでいて(母の実家は沖縄で、父のは和歌山で、彼らは名古屋の近くに住んでいる)、僕は小さい頃から親戚の死というのは、とても遠く、すぐには訪ねられない場所で起こり、電話で知った。

だから、遠いことには変わりはない。でも、一日かかっても訪れられないほど遠くは無かった。

自分がここに住み続けたら、これから親しい人が遠くで亡くなってしまうのかと思うと、憂鬱になる。どうしようもない気持ち。そんな哀しみを背負いながらも生きていかないといけないんだろう。

祖父は、自分が幼い頃から年数回会いに行くと、喜んでくれて、幼い自分にとっては大きすぎるような額のお小遣いをくれた。祖父は年金暮らしで、お金もあまりいらないから、子供や孫に渡したいと言っていた。

80代後半のころまで畑では野菜の世話をしていて、僕ら孫が訪ねると、一番楽しい収穫をやらせてくれた。一緒に庭の世話をしたこともよくあった。祖父はとにかく畑が好きで、祖父の家で朝起きると、日が明けた頃から祖父は草抜きをしていた。日が昇った頃には休憩で、砂糖とミルクのたっぷり入ったアイスコーヒーを差し入れた。

国鉄に勤めていた祖父は若い頃、戦争で当時の満州まで行って鉄道敷設と戦闘をして、爆撃を近くで体験して、仲間を失いながらも生きて帰ってきた。多くを語らなかったが、戦後70年以上経っても、当時の場景をときどき夢に見てうなされると言っていた。

長年連れ添った祖母が亡くなったとき、涙を流しながら、赤十字の活動への支援とキリスト教的なものへの親しみを持っていた祖母をマリア様のようだったと語っていた。家には祖母が亡くなった後にも、擦りガラスに赤いビニールテープで貼られた十字が残っていた。

祖父は勉強家で、詩吟を習い、中国の古典を辞書を引きながら読んでいた。仏教への関心も強く、自分で覚えた念仏を唱えていた。晩年、彼が安らかなように生活を送れたのは、仏教への強い親しみからなのかと思う。

身の回りの整理をするように、僕らが訪ねる度に自分の本はいらないかと、配っていた。僕の実家の本棚にもそうして貰った本がいくつか置いてある。

 

たまに冗談のように祖父は「朝起きたらそのまま死んでいたら幸せだ」というようなことを口にしていた。それは悲しみというよりも達観したような言葉だった。

彼の最期は彼の願いのようなものだったのだろうか。

僕はどんなふうに生きていけばいいんだろうか。

すぐには答えは出せなさそうだけど、今は遠い空から祈るしかない。

R.I.P. 安らかにお休みください。