そのとき、絶対的になること

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ある日のブランチ。マッシュルームのオムレツとアボカド。

 

二度寝をしてしまった。寝過ぎで頭が少し痛い。

ブランチでトーストとドリップコーヒーを飲んで、英語の勉強に取り掛かろうとしたけどやる気が出ない。頭が痛い。それに全身が重く感じる。

外の空気を吸おうとコンビニまで歩いた。フリーマーケットアプリで数百円の利益にもならない金額で売ったものを発送するついでに。

コンビニでは店員の人たちの愛想が良くて、すこし和んだ。マニュアルっぽい対応ではなくて、生活の一部として働いていることの人間らしさからくる温かみ。

部屋に戻ると今度はマキネッタでエスプレッソを入れて、たっぷりと砂糖を入れたマグカップにそそぐ。それから牛乳で残りを満たしてから再び温める。

普段はブラックでしかコーヒーは飲まないのだけど、たまにエスプレッソでカフェオレを作るといい。コーヒーの味がしっかり出ながらもミルクの柔らかさが包む。

 

カフェオレを片手に、ソファに寝転んで、最近買ったロマン・ガリ『夜明けの約束』(共和国)を読む。しばらく小説を読んでなかったから、少し高かったけど買ってみた。行った書店の雰囲気が良かったし、何より装丁がとても素敵だったからだ。

この小説を含めて、フランスのマザー・コンプレックス丸出しな作品に当たることが多い気がする。そして僕はそれらがけっこう好きだ。

ロラン・バルトの『明るい部屋』、グザヴィエ・ドランによって映画化された『たかが世界の終わり』『マミー』、カミュの『異邦人』も逆の意味でマザコンっぽい気もする。

『夜明けの約束』の母も強烈だ。絶対的な愛。逃げ場がないほどの愛。

かつて、僕はここまで愛されたことがあっただろうか。

しかし、この母は常に世間における比較のゲームの中で戦おうとしている。「お前はバイオリニストになるんだよ」「お前は作家になるんだよ」「お前は外交官になるんだよ」と「私」に言い聞かせる。

やっぱり世間のゲームの中でしか戦えないものなんだろうか。金持ちになること、名声を得ること、名家の美しい娘を手に入れること…。

「母」の愛は絶対的とはいえないかもしれない。

息子は息子であることというだけで、愛されることの意味があるはずなのではないだろうか。

 

それと同じように、僕も自分自身、絶対的に自分を愛することができないだろうかと考えていた。

僕が僕であり、生きているために生きている、そのこと自体を認め、愛することができないものだろうか。

他人と比べることによってのみ、価値があるような気がしてきた。

他人は見下すものか、見上げるものか、競争するものだったかもしれない。

他人はその価値によって認めたり、認められたりするものだったかもしれない。

そうじゃなくて、他人がただ人間であり、生きているということを認め、愛することができるように、自分が生きていることを認め、愛することが出来るのだろうか。

それはどうやって?

 

もっと言えば、過去の自分や未来の自分とも比べることもなく、その瞬間々々を認めること、愛することはどのようにしてできるのか。

今の自分を肯定するために、過去の自分を否定する必要なんかないのだと。

過去の自分を崇めるために、今の自分を否定する必要なんかないのだと。

自己同一性は常に幻想なんだ。それは他者からの視線を介すること、名前や制度が要求し、担保することによってできたものなのだ。

だからといって、過去の自分と、今の自分は違うということを声高に唱える必要もない。

ただただ、今の自分、そのときを、絶対的に認め、愛するということが出来ないものだろうか。

 

夜明けの約束 (世界浪曼派)

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明るい部屋―写真についての覚書

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異邦人 (新潮文庫)

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「あなたは何をやりたいんですか?」と「普通の人」

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僕たちは常に呼びかけられる。

「あなたは何をやりたいんですか?」

例えば、日常的な会話の中でもそうだし(特に大学の同期以外の人、家族とか)、自己啓発本(読んだこともないけど)、大学院入試や様々な面接において問われる。

なんなら、物心ついたときから繰り返し、問い詰められる「将来の夢」のようなものもその一環だ。

僕たちは常に問われている。

そして、それを聞き手が納得する形で、しかし、手頃に細部を捨象し、少年漫画のような安っぽい熱望をまとわせて、テンポよく返すことを期待される。

 

僕は、海外大学院の申込のために用意するモチベーション・レターのテンプレートを、ネットであさっていた。

 

「○○大学申込事務局へ、

私はとてもモチベーションの高く、自信をもった学生です。・・・

学部では○○の勉強をし、それは大学院におけるプログラムへの貢献ができることを示します。・・・

私は将来、ヨーロッパの国際組織で働くことを所望しており、本国ではそれが成し遂げられる可能性が低いことからも、そちらの大学において勉強したいと考えています。・・・

私は○○年に○○機関において2か月間のボランティアを行いました。・・・

また、かつてイギリスで語学研修に参加したこと、一年の交換留学のプログラムを修了したことは、私の大学院での学生生活の成功を保証します。・・・

良い返事を心待ちにしております。・・・」

 

こういった具合だ。

確かに、これを読んだ採用担当者は「ふむふむ、やる気があるし、目的意識もはっきりしているし、いい学生だ。採用だ。」となるかもしれない。

それは十分に分かる。

競争的な社会において、多くの選択肢の中から判断をするということは「平等性」と「自由」に関わっている。

 

しかし、どうだろう。

僕も含めて、そこまで将来に「熱望」があって、それに完全に合致するようなことってどのくらいあるのだろうか。

僕だって何かしらの目標はある。だけど、それはこのような具体的で決意と夢に溢れたものではない。

もっと「こんなふうに生きていければいいかな」というように、ふわふわとしたものではないだろうか。

決意と夢に彩られた文章や人は、新品の真っ赤なアロハシャツのように「輝いて」おり、暑苦しく、息が詰まる。

とても自分には似合いそうにもない。

それに、そういうことを毛嫌いしてしまう自分がいる。

そんなことを心の中に悶々としながらも、僕はそんなテンプレートに倣って書いたのだけれども…。

 

「あなたは何をやりたいんですか?」

いつも「総括」を迫られている気分だ。

それは、権力によって上から下に振り下ろされるだけではなくて、自分の中に内面化している。

「で、俺は何をやりたかったんだっけ?」

ふと立ち止まるとき、今まで自然に覚えて、楽しく駆けていたスキップが出来なくなる。

足はこんがらがり、しゃがみ込む。

後ろを振り返り、今まで自分がやってきたことすらも疑うようになる。

それでも、歩かないといけないから、どうにかして不器用にゆっくりと俯きながらも進みだす。

なぜなら、周りが常に前に向かって動いていて、立ち止まることは遅れを示すからである。

 

* * *

 

そういえば、保育園に通っていた頃の「将来の夢」に関する回答を思いだした。

 

女の子は「ケーキ屋さん」や「花屋さん」、男の子は「サッカー選手」や「野球選手」など、いつ覚えてきたのか分からないような模範解答をしていた。

僕は、そのままの感情で「普通の人」になりたいと言った。

それは「普通の大人」の意味で、分かりやすく言えば「サラリーマン」だったのかな。

自分や友達の父は保育園児だった僕にとっては「普通の人」の典型であり、そのままなりたい人たちだった。

家族からは、「普通の人って、今は普通じゃないの?」としばらく笑いものになったのだけど。

 

僕らは常に呼びかけられている。

「あなたは何をやりたいんですか?」と。

僕らは夢なんかあっても、その場の流れで出来た、ふわっとしたものでしかないはずなのに、いつも問われる。

それが難しいことなんか分かっているのだけど「そこそこ楽しくて、幸せな人生」ができたらいいのだけど。

一月

一月を振り返ると、卒論の追い込みと、大学院のための研究計画にかかりっきりだった。

まあ、適当には飲んでいたり、休憩をはさみはしたのだけど。

普段から文章を書くこと自体は嫌いではなく、自分の感情が文章に乗ればとても良い気分がする。誰かからの反応があればなおよい。

 

ただ、卒論と研究計画はまた別の話だ。

研究として先行研究を読み続けて、辞書を引いたり、メモを取ったりして、食らいついていく。

理解できないことや、自分がやろうとしていることに合うものがなかったり、あるいはありすぎたりして何時間も読み込む。

イデアをどうにかして無意識の力も借りながらまとめていき、枠組みを作る。

そのようにしてこねくり回し、手垢の付いた異物を粘土のように貼り付け、一つの不格好な塊を作っていく。

言葉は自分の手を離れ、思考は分裂する。

手は止まり、頭は焦燥しきっている。

また日をまたいでしまった。

そんなことをしていると、まるで自分の楽しいと思っていたことや、熱をもっていたことが本当なのか分からなくなってくる。

そして、自分が口先だけの人間であることや、能力のない人間であるような気がしてくる。

「そうだ、お前はその程度の人間だ。」と自分の中の誰かがいう。

 

卒論と研究計画はとりあえず終わったが(研究計画はまだまだ手入れが必要だけども)、なんだか自分が好きだった学問を続けていくほどの熱望は少なくなってしまったかもしれない。

しばらくしたら、また楽しくなってくるのかもしれないのだけど。

 

自分の手から離れてしまった言葉を取り戻し、自分の楽しんでいた学びを再び得られるようにしなければ。

ひょっとしたら、こういうことの繰り返しなのかもしれないね。

メリー・クリスマス

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クリスマスと聞けば、それはフィルムカメラで撮られた、彩度が不調和で少しぼやけたような写真が思い浮かぶ。

 

去年のクリスマスは留学先の大学は休みで、確か氷点下のブダペスト訪れていた。曇った仄暗いブダペストの街の中で、クリスマスマーケットの明かりが優しくてホットワインは甘かった。

 

一昨年は当時付き合っていた人を訪ねるためロスアンゼルスにいた。イミグレの長い列に並びながら、空港職員が似合わないサンタ帽を着けていた。

 

今年はといえば、卒論のために図書館と研究室に入り浸っている。今も研究室にいて、Youtubeで誰かの作ったスティファン・スティーブンスのクリスマスミックスを聞いている。

先日はクリスマス会と称して、友人たちと料理を作って、そこそこ美味しい安ワインをしこたま飲んだ。

 

きっと今年のこんなクリスマスもピントのぼけたフィルム写真のように思い出されるのかもしれないな。

それはそれで良い。

クリスマスっていうのはいつもは聞かないマライアキャリーとかワム!とかの煤けた遠くで鳴っている、キラキラした音楽のようでいいんだろうなと思う。

 

メリー・クリスマス。


Sufjan Stevens Complete Christmas Collection

石になった父

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いつからだろう、父が石になったのは。

あることを言っても、同じ話しか返さない。

それ以外のことに至っては、まるで反応がない。

 

40年ほど会社員として勤めてきて、今にも辞めてやる、と豪語していた父はどこに行ってしまったのか。

海と山が好きだった父はどこに行ってしまったのか。

 

父とは血の通った話をした記憶があまりない。

いや、数年前に一度家族で飲んでいる時に、部下の指導で頑張ったんだけど諦めた、というような話を少しうつむきながら話したのが最初で最後であったのだろうか。

 

僕は昔から兄と比べて父と一緒にいる時間は長かったような気がする。

兄は父と似た性格のせいで、真正面からぶつかって、そのせいで今はファザー・コンプレックスとか言われているけど。

父とは二人で一緒に海に潜って、沖の岩場で「これが獲れた」と言葉をかわした記憶がある。そのとき二人は親子を超えて、相棒のように海を泳いだ。

 

この前に実家に帰ったときにはもう父は石になっていた。

言葉に流れる血がなくて、それはまるでプログラムされたように、僕が何かを言えば僕の聞き飽きた答えが出力される。

そしてもう帰ろうとしている僕に対して背を向けた。

 

いつからだろう、父が石になったのは。

それも柔らかな質感をもった丸い石ではなく、コンクリートと見分けのつかないような、そんな石。

秋と冬のあいだ

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寒さが始まろうとしている晴れた日の午後。

そんな日の一つひとつの瞬間が愛おしい。

斜めになったやわらかな陽に誘われて、壁にうつった梢はゆれている。

長くなってきた前髪が細めた目に届く光を優しくしている。

地面の湿った感じとか、踏むとかさかさと音をたてる落ち葉とか。

雲がゆっくりと動いて、原色を水で薄めたような青色の空に溶けていく。

まだ馴染んでいないマフラーを巻いて、ポケットに手を温めて歩く人。

草花は葉先を少し枯らしながらも緑色を濃くして、これから来ようとしている冬に備えている。

僕はステファン・スティーヴンスの歌声がそんな風景に似ているかもしないと思いながら彼の優しくほろ苦い歌を聴いている。

こんな日がいつまでも続いたらいいのかもしれないけど、それは秋と冬のあいだだからこそ在るのだろう、きっと。

ひょっとしたらこんな綺麗な時間は、今日のこの瞬間だけかもしれない。

それでもいい。

僕は冷えてきた体を抱えて、暖房の効いた部屋にはいる。

こわばりがゆるんで、うっとりとする。

もうすぐ日が暮れるよ。

家に帰ったら、オレンジとシナモンと砂糖をたっぷり入れたホットワインを作ろう。

きっと何か良いことを想いだすよ。

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「理解」に関する積極的不可知論

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理解など誰もできなくて、それを求めれば求めるほど理解なんてされない。妄想が崩れ去ったことへの苛立ち、身をよじるだけ。

僕たちには積極的な不可知論が必要だと思うんですよ。

それはある意味、理解なんてされないのだ、という諦念ともいえるのかもしれない。

理解しよう・されたいなんて生きている人間に対しておこがましいと思わないか。

所詮、理解なんてできなくて、それはひょっとしたら悲しいことなのかもしれないけど、それはある意味一つの真実なのかもしない。

それは寂しいことかもしれない。こんなに君と一緒にいるのに。

理解などできもせず、されもせず、でも、それでも一緒にいたいというなら、一緒にいないか。

僕はそう思うんだけど、君はどう思う?

これを言うこと自体、ひょっとしたら理解してほしいことのひとつのかもしれないんだけど。

それが理解されなくてもよくて、僕はそれでもいいのだけど。

どんなにこんなことを考えたって、しばらくしたら忘れて、またスーパーマーケットの子どものように四肢を地面に叩きつけて泣くだけなんだ。

蛍光灯に照らされて、行儀よく並んだ商品に囲まれて、大人はバツが悪そうに見てみぬふりをする。

「今日のおかずは何にしよっか。」どこかから声が聞こえる。

 

カルマ、カルマ。今日もまた君を傷つけた。カルマ、カルマ、カルマ。