「理解」に関する積極的不可知論

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理解など誰もできなくて、それを求めれば求めるほど理解なんてされない。妄想が崩れ去ったことへの苛立ち、身をよじるだけ。

僕たちには積極的な不可知論が必要だと思うんですよ。

それはある意味、理解なんてされないのだ、という諦念ともいえるのかもしれない。

理解しよう・されたいなんて生きている人間に対しておこがましいと思わないか。

所詮、理解なんてできなくて、それはひょっとしたら悲しいことなのかもしれないけど、それはある意味一つの真実なのかもしない。

それは寂しいことかもしれない。こんなに君と一緒にいるのに。

理解などできもせず、されもせず、でも、それでも一緒にいたいというなら、一緒にいないか。

僕はそう思うんだけど、君はどう思う?

これを言うこと自体、ひょっとしたら理解してほしいことのひとつのかもしれないんだけど。

それが理解されなくてもよくて、僕はそれでもいいのだけど。

どんなにこんなことを考えたって、しばらくしたら忘れて、またスーパーマーケットの子どものように四肢を地面に叩きつけて泣くだけなんだ。

蛍光灯に照らされて、行儀よく並んだ商品に囲まれて、大人はバツが悪そうに見てみぬふりをする。

「今日のおかずは何にしよっか。」どこかから声が聞こえる。

 

カルマ、カルマ。今日もまた君を傷つけた。カルマ、カルマ、カルマ。