「君が僕を知ってる」 親友と死について


Kiyoshiro & Chabo - 君が僕を知ってる

 

僕の個人的な友達やTwitterを見た人は知っていると思うのだけど

僕は夏から1年間の留学をしている最中である。

来てから2か月半ほど経つところだが、ついこの前日本から親友が会いに来てくれた。

 

彼とは高校の時からの友人で一緒にバンドを組んだり

僕が進学とともに関東に住むようになってからも

実家に帰った時には必ず飲みに行ったり

一緒に日本国内や東南アジアを旅行したりした仲である。

 

特に「分かり合ってる」というような臭い雰囲気はなくて

話す内容も最近あった面白かったことなどの大したことではないのだが

一緒にいるということが楽で、むしろ「日常」という感じ。

 

彼は時々、僕が言えないようなハッとするようなことを簡単に言ってのける。

例えば僕が地元を去るときに一緒に飲みに行ったときに急に涙を目に浮かべながら

「お前がいなくなるの寂しいな」と言ったり

彼に新しい彼女ができた時に「こいつに聞けば俺のこと何でも知ってるから」

と僕を紹介したりするのだ。

 

普段はとびきりくだらないのだけど時々少年のような純粋さ青臭さを露わにする。

彼がそんな青臭いことをいう時、僕は少し恥ずかしいのだけど

正直嬉しかったりする。

そして、その自分との「違い」みたいなことがまた彼と付き合っていて

飽きないところなのかもしれない。

 

まあそんなこんなで忌野清志郎の「君が僕を知ってる」の話をしたい。

この幸せに満ちた動画では清志郎

長年一緒に音楽をやってきたCHABOこと仲井戸麗市と一緒に

お互いがお互いに向けて歌っているように見える。

お互いを想っている気持ちが歌詞からも動画からも満ちていて

なんとなく僕と親友みたいだなと思う。

こっぱずかしいような青臭いような歌を僕は面と向かって歌えないけど

彼なら歌ってのけるだろう。

 

(ちなみにバンドを組んでいた時に僕はギターで彼はヴォーカルだった。)

 

 

ところで

記事を書くにあたって歌詞を改めてというか初めて見てみたのだが

実は今までずっと歌詞について重大な誤解をしていたことが分かった。

始まりで「有名になっても」のところを

「夢になっても」(=死んでも)と聞いていたのだ。

そして僕はこの独特な死生観について書こうと思っていたのだが…。

 

いや、まあいいか。

そのまま思っていたことを書こう。

 

初めてこの曲を聞いたとき

「君が僕のことを知ってるから死んでも気にしない。」

ということがどうしても理解できなくて

清志郎も不思議なことを言うもんだなと思ったのだけど

しばらく聞くうちに何となく分かってきて

それは僕にとっての救いになった。

 

たぶん自分が高校生2年の時だったと思う。

そのとき僕は死ぬということをどのように考えればいいか悩んでいた。

昔から「自分が死ぬ」ということが受け入れられなかったのだけど

その時はとくにそれが頭から離れなくてきつかった。

 

自分という存在が無くなるという恐怖。

生きていたって生きていなくたってどっちも変わらないんじゃないかと思っていた。

どうせ消え去るこの命。

その儚さと世界の不条理におびえていた。

 

そのとき多分彼と会って「親友」と呼べるような仲になっていたと思う。

実は彼も忌野清志郎は好きでこの歌を知っていた。

 

そのとき悩み続けてきた死についての考えが

「君が僕を知っているから死んでも気にしない。」という

(聞き間違えなんだけど)歌詞に乗ってゆっくり溶けていった。

 

僕のことを自分のように分かっている「君」がいれば

僕が死んだとしても君が僕を知っているのだから

ある意味僕の人格が消えてなくなるということはない。

 

だからかなり楽になった。

 

別に死んだっていいか気にしなくていいか。あいつがいるし。

と思うようになった。

 

生への執着が無くなったときに死への恐怖もなくなった。

 

多分理解できる人とできない人の両方がいるのだろうけど

僕はすんなりとこのような考えに着地した。

 

だから聞き間違えであったとしてもこの歌と親友に感謝している。

そして本当の歌詞を知った今からでも

相変わらず僕は「夢になっても」と聞き続けるだろう。

 

 

ちなみに親友が来てくれた時に

コーヒー豆とペーパードリップの器具を持ってきてくれた。

そして一緒に寮のキッチンで淹れて飲んだ。

 

きっと彼のことだから

「コーヒーを僕に入れておくれよ」

の歌詞を真似てやったのかもしれない。

相変わらず青臭いことをやるんだよな。

でもやっぱり僕は嬉しかった。