誰にでもなれる旅、誰にもなれない旅 ②
昨日言葉少なに挨拶したウクライナから来たという中年の男性はときどき考え込むように立ち止まりながら準備をしたあと、僕がパンとジャムとコーヒーだけの朝食を取っている間に出ていった。
小さな部屋に置かれた三段ベッドに残ったのはドイツ語を話す若者二人組だけになり、シーツはホステルのスタッフによって手際よく替えられた。
真っ白に洗われたシーツを被せるとベッドは誰でも受け入れる。そしてどのベッドも同じような姿になる。替えられなかった自分のベッドのシーツに横たわると上に組まれたベッドのマットレスの下側が見える。長年使われ、様々な人を受け入れてきたマットレスには誰かの汗がしみ込んで大きな染みが形を作っている。それを見て本当のところちょっとだけ安心した。それは喫煙所に溜まった吸い殻の山に赤い口紅がついている吸い殻を見つけたような気分だ。同じように見えるものでも違う道を歩んできたことの徴。
旧市街と旧ユダヤ人街は前日に一通り見ていたことと、観光客の多さに疲れたこともあって、その日はクラクフ郊外へトレッキングに行くことにした。山の頂上にはCamaldolseという修道院があって、一日の間でも午前と午後の一時間ずつしか訪問者を受け入れない。7人ほどいる修道士たちは肉食禁止の食事をし、互いに顔を合わせることも祈りの時間だけだという。
トラムの終点からバスに乗って修道院を目指す。どの切符を買おうかと迷っていると近くの人が教えてくれて、降りる時もこちらを向いて合図してくれた。「ありがとう」と礼を言って修道院まで歩く。午後の開門時間まで数時間あったため、トレッキングのコースを歩くことにした。
すれ違う人もまばらで、木に記されたマークを頼りに森を歩く。森の中を歩くことが好きな人というのは自然を客観的に見ることを楽しむのではなく、森に包み込まれるような感覚を心地よいと思うのだ、ということを誰かが言っていたが、確かにその通りだと思う。少なくとも自分はそうだ。湿った森の草木の匂い。踏みしめる柔らかい土。ときおり頬をかすめる軽やかな風。歩いているときは沢山のことを考えるのだけど、森はその思考をも変えるほどの大きな力を持っていると思う。
一時間ほど歩くとベンチの置かれた開けた場所に出た。山の中に動物園があって遠くで動物と子供の声がする。持ってきていたリンゴを齧って、一本だけ丁寧に煙草を手巻きして吸った。煙はゆっくりと風に乗って遠くに流れていった。残ったリンゴの芯はごみ箱には捨てずに、茂みの中へ投げた。このリンゴは深夜バスでこの街に着いたときにバスステーションの地下にあるスーパーマーケットで買ってバックバックに入れていたものだった。僕は芯をなるべく遠くに投げた。森に包みこまれ、ゆっくりと土へ分解されるように。
修道院まで戻ったが開門時間までまだ少しあったため、門の影で座って待つことにした。壁と天井を見渡すと、祈りを捧げる修道士と罪を贖ったキリスト、雲の間から光を照らすプロビデンスの目が描かれていて、素朴な風合いながらも畏れを感じる。
数組の夫婦や家族連れがやってきて開門を待つが扉は固く閉じたままで人の気配もない。痺れを切らした一人の男性が錆びた鉄で出来た取っ手を引くと、門の向こう側で鐘が鳴った。足音がゆっくりと近づいてきて、扉の鍵を開ける。ガシャンという音があたりに重く響く。
出てきたのは白い服に身を包み、禿げた頭に長い髭をたくわえた老修道士だった。鐘を鳴らした男性の家族が中に入れないかということを老修道士に聞くが、彼は険しい顔をしたまま首を横に振るばかりだった。家族連れが諦めその場を立ち去るとすぐに老修道士は扉を閉めようとした。すかさず僕は立ち上がり、中を見て回れないかということを英語で聞いた。老修道士は険しい表情を変えずに、ポーランド語で何かを言う。分からない顔をしていると彼は「Only church, no photo.」とだけ言い、僕を招き入れた。
教会までの短い石畳は日に照らされて輝いている。青々と茂った草は風に揺れている。固く閉じられた門と内側の道の穏やかさの対称。そこを歩いているのは僕だけ。
錆びた扉を押して聖堂の中に入る。自分の呼吸音さえも吸い込み増幅させるような静寂に満ちた祈りの場。黒い服に身を包んだ若い修道士がゆっくりと穏やかな足取りで歩いていたため会釈をする。修道士もこちらを向いて少しだけ表情を緩ませた。彼はどのようにしてここにたどり着いたのだろうか。どのような出来事が彼をここに来させたのだろうか。様々なことが僕の頭の中をよぎったが、彼の朗らかな表情を目にするとどのようであれ、現在の生活は満ちたものであることが分かった。彼は音も立てずに教会を出ていった。
左右に6つある聖壇を一つ一つ立ち止まって見て回る。無残にも十字架にかけられたキリストに天から光が差す絵。ヨーロッパに来てからは色々な国で色々な教会を見てきたが、その場だけは何か特別なような気がした。何が特別なのかは分からない。でもきっとそれまでの事や空気感を含んだ全てがその場を特別にしたのだと思う。
遠くで再びベルの音が鳴ると、聖堂の奥から老修道士が出てくる。ゆっくりと足を進めた後、入り口で膝をつき中央の聖壇に頭を垂れると、門へ向かっていった。再び静かになった聖堂に包まれる。一つの聖壇の中央に飾られた絵に惹きつけられた。
それは黄金の装飾で囲まれた、手を合わせるマリアの絵であった。その穏やかな表情は見る者の真実を見通すようでもあり、またその全てを赦すようだった。
しばらく立ち止まってその顔を見つめた後、自分なりの感謝を込め胸に手を当てて少しだけ目をつぶり、教会の外へ出た。
金色に輝く光は目を洗い、柔らかに吹く風は肌を撫でる。
老修道士に礼を言って立ち去ろうとすると「Please, look.」とテラスの指さした。古い石で造られたテラスからは木々に覆われた山と橙色の屋根の街がかすかに見える。修道士達はここから数百年もの間、この景色を見てきたのだろうと思った。そのとき彼らを何を思うのだろう。
門のところへ戻ると老修道士が写真とパンフレットの棚を指さし、持って行ってくださいという。その時はコインをあまり持っていなかったため、古ぼけたマリア像の写真を手に取って、これだけもらっていきます、という仕草をした。すると老修道士は少し奥に入り、何かを手に持って出てきた。それは新しく美しく印刷されたマリアの写真だった。実物を見た時のように僕はハッとし、それを手に取った。老修道士は細かい皺に刻まれた顔のすきまから穏やかな眼でこちらを見る。そしてパンフレットも持っていきなさいと言わんばかしに僕に渡した。すいません、コインを持っていなくて、と僕は詫びを告げながら手持ちのコインを寄付箱に落とした。
それから「Thank you so much.」と胸に手を当てて礼を言い、外に出た。
行きに来た道を戻ってバスに乗っても良かったが僕は森を歩いて抜けて街まで降りることにした。きっと修道士もそうするかもしれない。
2,3時間ほどかけて森の中を歩く。その時に色々なことを考えた。教会での経験、旅をすること。これまでのこと、そしてこれからのこと。
次の日は深夜バスで愛する人の元へ帰る。マリアの写真を携えて。カトリック教徒の彼女はきっと喜ぶだろう。沢山話をしよう。
誰かにとっての誰かであること。
旅は誰にでもなれるし、誰にもなれない。でも、そのなかで出会った色々な人や事が旅をする自分にとっての特別であればいい。
同じように印刷されたマリアの写真の一枚が僕にとっての特別であるように。
終
誰にでもなれる旅、誰にもなれない旅
旅をする。
君は旅に出れば誰にでもなれる。日常の君を知る人はここにはいない。見慣れた景色もここにはなくて、あの嫌な思い出も思い出さなくてすむ。遠くから来た人としてスターになれる。そうだ君は自由だ。何をしたっていい。
君は旅の中で誰にもなれない。そこで君は色んな人と話をするかもしれない。でも、それは旅人であることが関係の前提になっている。旅人は知らない人。どこかから来てどこかへ去っていく人。
日差しが強くなる季節になると人々は旅を始める。いつもよりも色彩の強い服を着て。シャツのボタンをいつもより1つ多く開けて。
大きな教会の前にある石畳の敷かれた広場に面する赤いゼラニウムに囲まれたテラス席へとウェイターが忙しそうにビールと白ワインを運ぶ。
酒に酔った男達は大声をあげる。僕は薄手のジャンパーのファスナーを上まで閉めて横を通り過ぎる。写真を撮るたびに立ち止まる前の人を避けながら思う。
「俺はなぜ旅をしているのだろう。」
歩き疲れてバンクベッドの詰め込まれたホステルに帰る。退屈になるまでスマホを見てからイヤホンを耳につけて少し横になると、浅い眠りが流れ込んでくる。数時間が経ったのだろうか、喉が渇いてぼやけた頭が起き上がる。確かに夢を見ていた気がするけど内容は思い出せない。そして思い出すほどの興味もない。
同じ部屋にいる中年の男性が声を掛けてくる。
「どこから来たんだ?この街は気に入ったか?」
「日本だよ。綺麗だし好きだね。」
僕は愛想の良い表情を作りながら決まりきった受け答えをする。会話はそこで終わった。
気だるさが残る足を引き摺りながら街へ再び出る。あて先も決めてなくて何となく人の歩いていく方向へと従って足を進める。
観光の中心から少し外れた所にある少し寂れたカフェに入る。店員の若い女の子が笑顔で接客してくれて、今日初めて人と話した気がした。
路上に置かれたテーブルへとコーヒーを運ぶと煙草に火をつける。煙草は旅の唯一の友人だ。ポケットにはいつも煙草とライターが入っている。
でも、昨日は少し吸いすぎたせいか深夜バスで気分が悪くなり腹も壊した。今日は控えておこう。こうしてまた僕は1人になった。
人はなぜ旅をするのだろう。気だるい体と頭を引き摺りながら。
誰にでもなれて、誰にもなれない。そんな孤独な旅。なぜ人は旅をするのだろうか。
不器用な歌
例えば
「あなたなんか会いたくない」という気持ちと
「あなたに会いたい」という気持ちの近さであったり、
「どこにも行きたくない」という気持ちと
「どこか遠くに行きたい」という気持ちの近さというものがある。
もっと言えば、それらは同じことだったりする。
ひょっとすると、それは幼少期、好きな子にいたずらをすることと似ているかもしれない。
とにかく僕たちはそういう矛盾するような面倒くさい気持ちを持っているのだ。
それならば引き籠ってしまわないで
「あなたに会いたい」のほうがいいし
「どこか遠くに行きたい」のほうがいい。
そんなことは知っている。
でもそんなに上手くいくわけではない。
不器用なものを抱え続けて生きていくしかないのだ。
「甘えるのが下手な優しさに似たRock'n'Roll」*1みたいな歌を歌う。
そういうこと。
Sufjan Stevens - Mystery of Love (From "Call Me By Your Name" Soundtrack)
生活の絵の描き方
――君は自由だ、どこにでも行ける、何でも出来る、何者にもなれる。
僕は若くて、これまでずっとそう思っていた。
実際は自由というのは限られていて、いくつもの制約の中で僕らは「自由」をやっているわけではあるのだけど。
でも少なくともメンタリティとして、どこにでも行けるし、何でも出来る、何者にでもなれる、というものは持ち続けてきたような気がする。
留学に来たのも何となくそういう感覚の表れというか、改めて自分でそういうことを体現したかったのかもしない。
それがこの1ヶ月ほどで変わってきている。
自分の住む地域だとか、する仕事の選択肢とか、一緒に暮らす人とか家族だとか、いわゆるライフコースというものがじんわりと出来てきているのが分かる。
自分でも驚くのは、そのようなことが自分の内側から自然と湧いてきたことだ。
あの破天荒になりたかった俺はどこに行ったのだろうか。
だからといって「普通が一番」的な排水溝の垢みたいな思想になったわけではもちろん全くなくて。
悪魔に魂を売ったみたいに「普通」になったわけではなくて。
何となく生活というものの絵を自分で描けるようになったのかもしれない。
僕もあんまり若くないのからと言ってもみるけど、僕はまだ若いですよ。
それよりもまあ今一緒にいる人の影響が大きいのかもしれないな。
きっとそうやって知ってか知らずか、人は自分の生活の絵の描き方を得ていくのだろうな。っていうと大袈裟かもしれないけど。
そんな自分の話。
過去と飛行機雲
過去の記憶。
それは時に僕たちを楽しませ、時に僕たちを苦しめる。
「思い出はいつも美しい」と寺山修二は書いたが、そんなことはない。
美しいものも辛いものもある。
こんなに沢山の過去と記憶を背負い続けてこれからも生きていかなければならないのか。
人間の自己同一性が一生続くものであればそうだ。
だから僕は自己同一性を認めたくなかった。
自己は変わる。人間は変わる。
あの時の自分と今の自分は違う人間だから、その過去は自分の過去ではない。
そう思うことで過去を捨てようとした。
でも、全部捨てることもできないし、捨ててしまうには惜しい思い出もある。
だからといって逆に過去を美化することも醜いよ。
僕たちはそうやって逃れられない過去を後ろに残している。
でも、だからといって背負わなければいけない、消さなければいけない、というわけではないんじゃないか。
過去は僕らの軌跡としてそこに落ちている。
それは事実だしどうしようもない。
でも、ただそこにあるだけだ。
僕らはその前で進んでいる。
それはどこかに消えてしまったり、くっきりと残ったりする。
ただそれだけ。
空に描かれた飛行機雲の断片を見ながら
そんなことを考えていた。
「周りにいるだけで幸せになれる人」
先日、スペイン人の友達のお別れ会飲みがあって、スペインからの4人とナイジェリアからの留学生1人と一緒に飲んだ。
いや、別にスペインからだからって皆明るいわけじゃないと思うんだけど、この4人はそれぞれ違った方向性で皆明るい。
ちなみにナイジェリアからの女の子もめっちゃ明るい。
俺だけか、そんなに明るくないのは、ということは置いておいて…。
ビールを一杯だけ飲んだところで店の閉店と共に追い出されてしまったため、別の店に移動。
自分が日本で飲んでいたような飲み方とは違って、次の店に着いても知り合いの挨拶から始まり飲まずにずーと喋っている。
俺はスペインとナイジェリアからの子と話してたんだけど、少し離れたところで仲間が泣き始めた。彼女は送り出す側なんだけど。というかさっきまでめっちゃ笑ってたのに。どうした。
こっちもびっくりして、まあ常々感情の振れ幅が大きい人だから「何、何なの?」と半笑いながら様子を見ていた。
ナイジェリアからの子がこんなことをおもむろに言った。
「彼女は滅茶苦茶ハッピーか、滅茶苦茶悲しむかのどっちかだよね。でも、彼女の素敵なところは、どっちにしろ周りにいる人全員がハッピーになれること。だから一緒にいて楽しい。周りにいる人を暗くする人もいるけど、そういう人とは一緒にいたくないじゃん(笑)。」
周りにいるだけで幸せになれる人。雰囲気を明るくする人。
そういう人ってどこにでも一定数いて、本人は本人の好きなように過ごしているんだけど、ただそれだけで周りの人は明るくなれる。
そういう人って良いよな。
まあ自分は性分的にそういう風にはなれないけど、輪に入っても邪魔にならず、ときどき何かで誰かを微笑ませることができる人、そのくらいになれたら良いな。
あの高い場所
日が昇る少し前、あるいは日が落ちた少し後。
自分のいる地面より少し高い場所を日が照らすことがある。
自分には見えない太陽があそこからは見えるはず。
たった数メートルの違いで自分には届かない場所。そこには別の景色が広がっている。
きっとこんな少しだけの違いで自分の見えないことが色々あるのだろう。
自分の気がつかないところで。
目を向けなければそのことすらも気がつかない。
あの高い場所からは何が見えるんだろう。
同じ世界にいるはずなのに。
* * *
高校生の頃に山岳部の合宿で北アルプスの燕岳に登り、山頂でテントに泊まったことがある。
夜なんとなく目が覚めて皆が寝ている横、テントの外に出て見た星空はとても綺麗だった。
別のテントで寝ていて偶然同じタイミングで起きてきた友人と「すごいね」と少しだけ言葉を交わしたような気がする。
朝には皆で日の出を見ようということで、所どころ筋肉痛の体を引きずりながら起きて外に出た。
やはり他のグループも同じように日の出を見ようと山筋に並んでいた。
そのとき隣にいたのは山岳部の顧問で親しみを持っていた、すこし間の抜けたところがありながらも少年のように笑う先生で、日の出を心待ちにしている僕に対してこう教えてくれた。
「あの後ろに見えるのが槍ヶ岳だ。槍ヶ岳はここよりも高いから、その穂先が先にぽっと赤くなるんだ。」
地球が丸くて、太陽が高い場所から順に光をもたらす。そんな壮大な世界を思い描いた。
僕は目の前の太陽が昇るであろう場所と、背後の槍ヶ岳の穂先を交互に見ていた。
だけど、その先生が言ったようには穂先は照らされなかった。
きっと天候とか色んな条件があるんだろう。そう僕は自分に言い聞かせた。
でも僕はその美しい日の出だけでも十分に満足した。
時は経って、僕は地元からは遠い大学に通うようになって少し過ぎた頃、高校時代の友人と久しぶりに母校を訪ねた。
久しぶりに会う人と近況を報告したりしたけど、あの顧問だった先生はいなかった。
聞けば他の高校に転任になったという。
その高校は生徒の質の面であまり評判が良くなく、少し間の抜けた彼はうまくやっているのだろうか。
今となっては知る由もないのだけど、きっと新しい日常を歩んでいるのだろう。
* * *
たった少しの違いなのに異なるものが見える場所。
目を向けなければそんな場所があることすらも気が付かない。
そこからは何が見えるんだろう。
あの高い場所へ行きたい。