悪魔
悪魔が心のどこからか現れる。
それは僕の悪魔だ。
どんなに貴方のことを思っていて、貴方のために良いことをしようとしたって
僕の心に悪魔はやってくる。
邪悪な心が俺を誘惑し、思考は無化する。
他人を傷つけ、自分を傷つける思考が次から次へと自分の頭を支配して
自分の心というものがここまで邪悪なことに僕は絶望する。
悪魔は笑っている。
「そうさ、お前だって所詮この程度の人間だろ。善い人のフリなんかするなよ。今に分かることだぜ。」
悪魔が笑っている。
僕は少し疲れたのかと思ってコーヒーを飲んでベッドに横たわる。
枕に顔を押し付けて、睡眠が僕をどこかに連れて行ってくれることを願う。
そのうち、そのまま起きているよりはちょっとだけマシな眠りがやってくる。
起きると悪魔は姿を小さくしている。
「なんだ、俺は疲れていただけか。」
すこし安心する。でもまたすぐに悪魔はやってくる。
僕は貴方を傷つけたくなくて、僕が悪魔を心に持っているときだって、
苦虫を噛み潰すみたいに、悪魔を押し殺す。
悪魔と手を結んで貴方を傷つけるくらいならば、俺もいっそ悪魔と飛び降りたほうがマシかもしれない。
悪魔はいつか僕の心を立ち去るのか。それとも飼い慣らすことができるのか。
僕には分からない。そんな今を足掻いている。
Too beautiful to forget
留学中、同じ寮の同じ階に住んでいたスペイン人の女の子と久しぶりにメッセージのやり取りをした。
彼女はすれ違うといつも「マサ!」と笑いながら挨拶してくれて、たまにキッチンで会うと少しだけ長めに話をした。
彼女はいつも笑って、楽しそうに生きていて、僕はそんな彼女を羨ましいと思っていた。
ある時、大学のプロモーションビデオに出ているのが回ってきた。
「What is happiness for you?」というベタな質問を色んな地域から来た留学生に答えてもらう、というもので他の人は家族、友人などと答えていたのだけど彼女は
「日曜日の朝、少し早く起きて、美味しい朝ごはんを作って、食べて、もう一回寝ること!」
と笑顔で答えていて、僕は少しニヤリとしながらも、やっぱり羨ましく思った。
* * *
毎日のように部屋で飲み会をして、パーティーに出かけていた彼女だが、スペインに帰ってからはほとんど飲んでいないという。
時差でお互い返信が滞りながらも、これまでのこと、これからのこと、メッセージを行き交わす。
「俺は来年、また修士でヨーロッパに行くことにしたよ。また近くになるから会えるといいね!」
―「日本と比べたらよっぽど近くなるね、ハハ。スペインにまたおいでよ!」
彼女たちのいるスペインにはまた行って、一緒に朝まで飲んで踊りたい。
そして彼女は留学中のことを振り返る。
「It was great. Too beautiful to forget.」
忘れるには美しすぎる…。
やっぱり僕は彼女を羨ましいと思った。
正しいこと
例えば「真実」が大切な人を傷つけるとしたとき、それはもはや真実ではない。
より正確に言えばそれは正しさではない。
僕は誰にとっても当てはまるような真実や正しさのようなものを求めて、科学だったり知識だったりを渇望してきた。
ときにはそれを振りかざして自分の言う「正しさ」を押し付けた。
大切な人の頬には涙がつたった。
そこに正しさは無くて、あるとするならば孤独な自分だけだ。
大切な人を傷つけることでようやくそれが分かった。正しさとは大切な人のためのものだと。
逆に言えば、それを思うほどの大切な人ができたということかもしれない。
でも、いつだって失敗してばかりだよ。
今日も君を泣かせた。
僕はいつも失敗してばかりだ。
だけど少しずつ僕は正しさを手にし始めている。
傷だらけのごつごつした手には繊細すぎて壊してしまいそうな、小さな正しさを手にし始めている。
ときどき扱いを間違えて君を傷つけてしまうけれど。
僕は確かにこの可憐な正しさを与えられたんだ。
ねえ、君はどう思う。
さあ、スタジオへ行こう
日本に帰ってきて友人と飲んでいるとき、ふと気分が良くなって埃の被ったエレキを手に取る。
軽くチューニングをしてから指が覚えているフレーズを爪弾く。
「何か一曲くらいスタジオ入ってやってみるか」
ベースをやったことのある友人と、いつの間にかそんな話になっていた。
バンドを組む時の高揚感を久しぶりに思い出していた。
ギターは中学生のときから始めて中学、高校、大学とずっとバンドをいくつか組んでいた。
ほとんどはコピーで、オリジナルを作ろうとしたこともあったけど作った曲のコードも歌詞も覚えていない。レコーダーのファイルを探せばどこかに残っているのかな。
僕にとってバンドは常にほろ苦さとともにある。もちろん楽しかった思い出でもあるのだけど。
演奏が酷すぎて中学の学園祭のオーディションに落ちたときもあった。
僕はわがままでいつもメンバーと喧嘩した。
むせかえるような部室で少し感電しながら、どれだけ音を大きくできるかだけを考えていた。そしていつも教頭が出てきて怒られた。
メンバーと同じ女の子を好きになって気まずくなったり…(笑)。
大学のサークルでもいつもロクに練習しないで合わせられなかった。
あの時は熱っぽくなっていたし、僕も青かった。
またスタジオに入ったら同じ気持ちになるのかもしれないな。ならないかもしれないけど。
体のどこかに息を潜めていた、あの青臭い気持ちが疼いている。
さあ、スタジオに行こう。
夏の終わりの夜と風
夏は夜からその終わりを露わにしはじめる。
夏が終わることはいつになっても寂しくて、それは数年間使っていたアパートの部屋を引っ越すときみたいだ。
ひんやりとしてきた風は危なくて、僕はうっかり窓から身を乗り出しそうになる。
昔通っていたスイミングクラブで大好きだったコーチが
「今日はいい風が吹いているな」
と独り言とも、僕に話しかけているともつかないように言ったのをいつも思い出す。
それから2、3年経って彼は突然亡くなった。
僕は真夏の昼に行われた葬儀を思い出す。
そのとき風は吹いていなかった。
幼い僕は「いい風」が分からなくて、でもそれを言うことが何だか格好よくて、彼のように口に出してみようかと思ったけど、気恥ずかしくてやめたのを覚えている。
今、夏が終わろうとしていて、風が吹いている。
そして今、僕は「いい風」が何だか分かっている。
「今日はいい風が吹いているな」
可能性couldの切なさ
I could be perfect, I could die.
可能性としてのcould。
どちらも果たせなかった。一瞬のモーメントはそれまで積み上げてきた犠牲、散らかった潜在性を破壊し、生々しいほどの現実を突きつける。
couldはcanの過去形だと学校では教わったけど、それが意味するのは可能性なんだ。
何かを「できる」ことが過去になると「できた」こと、つまり不可変の現在から過去を後ろ向きに振り返って、その時に持ちあわせていたはずの可能性を語ること。
それはノスタルジーであり、自慰行為でもある。
宇宙ゴミのように可能性として取り残されてしまった僕の「他の」過去はどこにあるのだろう。
どうとでもありえた僕の過去。
* * *
可能性となったcouldは未来にも旅をする。
「俺、今はこんなに頑張ってやっているけど、いつか糸が切れたみたいに、ふっとやめちまうかもしれないぜ。」
彼はそう語った。couldを用いて。
それは未来の選択肢への希望ではなくて、未来の不確定性への不可知論的絶望。
可能性couldの切なさ。
何処にも行かずに、傷つけずに
どれだけ他人を傷つけながら生きてきたことだろう。
独りの夜に、曇った朝に、僕は今まで自分が傷つけてきたこと、その事実に押しつぶされそうになる。
自分の存在など、他人を傷つけることばかりしてきたんじゃないかって思うことがある。
誰からの世話も受けずに何処か遠いところに行って、誰も傷つけないようにしたほうが良いんじゃないかって思うことがある。
* * *
彼は言った。
人間は、他人を傷つけて、そしてその事実を背負い続けながら生きていくものなんだ。
人生が、そのようにして続いていくものなのであれば、それは悲しく、いったい何処に希望があるというのか。
人間の業だ。
* * *
何処に行くというのだ。それだって無責任なんだ。君がここからいなくなるというなら誰かがまた傷つく。
―だけど俺だって、もう誰のことも傷つけたくないんだ。
いいんだ、君はここにいて、誰かを傷つけないようにすれば良いんじゃないか。
ー・・・。
* * *
もう誰のことも、自分の大切な人を傷つけたくないんだ。
この世界には真実などなくて、真実があるとすれば、それは僕にとって大切な人を傷つけないということなのかもしれない。
それは機能主義的な生き方といえるかもしれないし、またプラグマティズム的な生き方といえるかもしれない。
全てのことが自分の大切な人を傷つけないという目的に向かって収束していくような生き方。
日が暮れ、熱気を残した部屋に冷えた風が忍び込む。そんな夏の夕暮れに考えたこと。